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2019年10月 2日 (水)

国造・神主と造営2

 泰孝が神主に復帰したことが確認できるのは、永仁七年三月二九日関東御教書で、そこでは神主泰孝代実泰からの申し入れを受けて、大社造営奉行に対して造営を急ぐとともに状況の注進を命じている。その前年に幕府から六波羅探題に対して、大社造営が国衙の無沙汰により終わっていないとして、関東申次西園寺殿に申し入れるとともに、正税を造営に宛てることと、弘安年間に靱負尉二〇人の免除を行った先例に基づくよう申し入れている。この幕府からの支援と圧力により、泰孝の復帰が実現したと思われる。一旦、完了したはずの造営・遷宮が規模が先例に基づかないため事業の再開が必要との論理で、国造の神主復帰が実現した。
 申し入れを受けて、正安二年(一三〇〇)二月には知行国主日野俊光の袖判を持つ国司庁宣が出され、国造に国衙・社家相共に造営の功を完了するよう命じている。また前述のように直接関係者に宛てた幕府御教書が出されていく。閏七月二五日には幕府が、守護信濃次郎左衛門尉貞清、朝山二郎左衛門尉時綱、多祢二郎左衛門尉頼茂等とともに、造営を奉行することを神主に命じている。一方、七月には惣社造営用途として乃白郷に代えて三刀屋郷が宛てられているように、惣社の造営も進んでいなかった。
 九月二八日には伏見上皇院宣が出されたが、翌三年一月に知行国主が藤原為方に交替したため、九月には宇多院院宣が出され、一二月には再度幕府が神主に造営の奉行を行うよう命じ、翌四年には造営料として国内に反別三升米と材木以下を宛て課して造営の功を終えるよう、命じている。しかし嘉元元年にはまたも知行国主が西園寺公衡に交替したため、院宣をうけて八月二二日には出雲国宣が出された。
 嘉元三年九月一五日には亀山院が五七才で死亡した。これにより、松殿兼嗣が領家に復帰したと思われる。一方、国造泰孝は徳治二年(一三〇七)一二月五日に譲状を作成して間もなく死亡し、孝時が国造となった。すると、神主職の裁判で敗れた出雲実政の関係者が、兼嗣から雑掌(預所)に補任され、神主孝時への圧迫を強めた。これに対して、国造は雑掌が社領等を押領したとして訴え、延慶二年(一三〇九)から幕府で領家と神主の関係について裁判が始まった。前回の裁判では事情に不案内な領家廊御方のもとでの裁判であったため国造側に有利に働いたが、今回は事情を熟知し支證を持つ兼嗣とその雑掌との裁判であった。国造側は神主補任については正和三年に結論が出たとするが、建武三年の裁判で国造側が提出した正和三年八月二七日関東下知状では、社領を神主が知行する支證の提出を求められた事しかわからない。裁判は続いていたのである。

 

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