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2019年10月 2日 (水)

国造・神主と造営3

 延慶元年一二月一〇日関東御教書で、守護貞清からの申状を受けて、国造に造営記録を急ぎ進覧せよとの命令が出されているが、造営のためというよりも、この裁判の予備調査の段階で、幕府が貞清に注進を命じた結果出されたものであろう。正和元年(一三一二)五月二〇日六波羅御教書でも関東御教書に任せて文書を帯して参洛せよとの命令が出ている。そして正和三年七月一六日には領家兼嗣が三崎社検校職に虎一丸を補任しているのは、この裁判を意識してのものであったろう。こうした中、造営は進まなかったと思われる。
 元亨三年(一三二三)三月五日には幕府が大社仮殿造営について正税の半分をその財源としたが、実際には行われていないとして、他の税・負担に経替えて沙汰するとの国造からの申し出を幕府が認めている。弘安の造営は規模のみならず質的にも簡素なものであり、短期間で新たな造営が必要となったため、文保二年二月の天皇の代替り=後醍醐天皇の即位を契機として、再び開始されたのだろう。この前後の出雲守についてはほとんど史料がなく不明である。嘉暦二年九月五日にも、計画した三分二弱の料米しか確保できていないとして、反別三升米を宛て課し、造営を遂げるように幕府が神主に伝えている。今回の造営では院宣・国司庁宣が残されておらず、幕府中心で行われたと思われるが、やはり進展しなかった。
 以上のように、鎌倉末にいたるまで、領家と国造の間で裁判が続き、幕府が前面に出ての造営もうまくいかなかった。
 題名とは異なり、造営事業と裁判が中心となったが、国造家の分立でも、現任者の寿命が残り少なくなっても後継者が未成年だったことが影響したことを述べた。戦国期の国造家でも、北島国造雅孝は尼子経久の娘との間に男子が誕生し、成人年齢に達したが、雅孝に先立ち死亡したため、国造になることはなく、その後は後継者争いが続いた。千家国造家でも男子がおらず、娘聟に国造の地位を譲ったが、その聟が大内氏の出雲国攻撃の際に、大内氏方となり、その敗退とともに、出雲国を離れてしまった。娘と聟との間には男子がいたが、未成年であったため、娘に新たな聟を迎えた。その後、後継者であった男子が国造となる事はなく、新たな聟の実子が国造を後継して今に到っている。

 

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