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2019年10月31日 (木)

戦国期の浦々の紛争処理

 松江藩郡奉行所文書には各種訴訟の関係文書が残されているが、その中に、天文二二年(一五五三)に島根郡美保郷内北浦と菅浦の境界を定めた書置が含まれている。以前、出東郡福頼庄の位置と範囲を示す史料を探す中で出逢った文書で、寛政年間の菅浦と北浦、ならびに菅浦と片江浦の浦山海境をめぐる裁判で、証拠として、北浦側から提出されたものである。
 同年二月に手角浦の手の物(者)が、菅浦側に拘束されたが、手角の者は両浦の入相(会)地だと主張した。手角浦から菅浦と北浦に先代之儀を申し入れ、北浦の年寄衆から菅浦側に意見したが、菅浦は納得しなかった。そのため、入会を認めない菅浦と認める北浦の境界について改めて定め、手角浦と長海浦からは入会を認める北浦側に樽二合が送られた。今後、菅浦と北浦との間に問題が発生して申し入れがあった際の証拠として、長海浦と手角浦の年寄である能海又(右)衛門尉家歳が確認した内容を杵田神主岡源大夫幸重が執筆して書置を作成した。それが寛政年間の裁判の証拠とされたのである。
 杵田神主とは長海浦の神社である現在の長海神社の神主であるが、源大夫とあることから源姓である。天文二一年四月一五日と翌二二年三月一三日には千酌郷内千酌の神社と郷内笠浦の神社が千酌郷地頭尼子国久により造営されているが、いずれも神主は宮代新右衛門で、地頭下代は岡又右衛門であった。源大夫と又右衛門は同族であろう。また、年寄野海は「又右衛門尉」とあることから、浦年寄であるとともに地侍的存在であった。天文一三年九月一七日に隠岐豊清が長海新庄清安寺に所領を寄進した際には、同時に家臣連署書状が出されているが、署判者としてみえる村上民部左衛門尉「幸歳」や寺本助右衛門尉「歳昌」との関係も想定できる。村上民部左衛門尉幸歳は、永禄六年三月には、隠岐氏一族である「隠新」とともに毛利氏と結ぼうとして鎮圧された「村民」と同一人物であると思われる。野海は千酌郷に隣接する加賀庄内野波の事だとすると、鎌倉初期以来加賀庄を支配してきた土屋氏の一族の可能性が高くなる。
 最初にみた段階では、個々の字の読みもあやふやで、どのような内容であるか理解できなかったが、史料の存在を市史の部会に提示し、市史に収録された翻刻文は、なお意味不明な部分はあるが、かなり正確なものとなっており、今回、検討した結果、以上のようになった。北浦、菅浦は美保郷内であり、長海庄内である手角浦、長海浦と同様、尼子氏の一族ないしは重臣が地頭として支配していたと思われるが、浦の境界については浦同士で取り決めをしていたことが分かる。これが尼子氏に訴えられるのは一方的な権利侵害が長期にわたった場合であろう。

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