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2019年10月 2日 (水)

国造・神主と造営1

 すでに述べたように、国造職は現任者の死亡により譲状が発効して後継者が継承するが、一方では年齢制限があったため、相続問題が発生した。国造系譜でも前任者の死亡により交替したように記されている。弘長二年(一二六二)一二月三日に出雲義孝が嫡子泰孝に国造職と惣検校職を譲っているが、文永五年正月 日領家兼嗣袖判下文により泰孝が神主(惣検校)職に補任されている。これに先立ち文永二年八月二二日には幕府が義孝譲状に任せ泰孝を神魂社領大庭・田尻保地頭職に補任しているが、神主には譲状に任せなどという文言はない。
 文永七年正月に出雲大社本殿が焼失すると、領家は国衙目代と結び、泰孝に代えて出雲実政を神主に補任して造営をすすめようとするが、その後実政に不忠があったとして父真高に交替させた。その真高も国造義孝の所持する旧記を見ることができず、仮殿造営が進まなかったため、領家は泰孝の父義孝を神主に補任した。国造義孝は弘安四年(一二八一)三月には大社造営は国造兼神主でなければ造営・遷宮を遂げた例は無いとの注進状を作成した。その後間もなく死亡し、子である泰孝が国造職を継承した。弘安一〇年ないし一一年には造営が完了し、遷宮が行われた。この時点では、三度目の蒙古襲来に備えた番役負担も続いており、現実的に可能な規模で事業は完了した。一方、大社領の本家は弘安八年に安嘉門院が死亡したことにより亀山院に交替した。亀山院はそれまでの領家松殿兼嗣を更迭し、某御房を補任した。次いで、自らのと間に子を産んだ廊御方を起用した。
 造営・遷宮の完了と本家と領家の交替が、元神主出雲実政の神主職復帰を実現した。これに対して国造泰孝は幕府に訴えたが、その際に幕府御家人であることと、造営旧記を重代に所持してきたことを主張した。正応五年(一二九二)七月九日には幕府が国造の主張を認め、六波羅探題に、領家廊御方に泰孝の神主補任を申し入れるよう命じている。ただし、神主補任権は幕府にはないため、これが実現したとは限らない。その一方で、前領家松殿兼嗣が、本家が交替しても領家職を重代相伝してきており、本家による更迭は無効であることを、幕府に訴え、裁判が行われていた。永仁五年(一二九七)二月一一日には六波羅探題が実政の越訴を退けたことを、国造に伝えている。現在、北島家文書として残る元暦元年一〇月二八日源頼朝袖判下文はこの裁判の過程で作成されたものであろう。

 

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