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2019年10月

2019年10月31日 (木)

戦国期の浦々の紛争処理

 松江藩郡奉行所文書には各種訴訟の関係文書が残されているが、その中に、天文二二年(一五五三)に島根郡美保郷内北浦と菅浦の境界を定めた書置が含まれている。以前、出東郡福頼庄の位置と範囲を示す史料を探す中で出逢った文書で、寛政年間の菅浦と北浦、ならびに菅浦と片江浦の浦山海境をめぐる裁判で、証拠として、北浦側から提出されたものである。
 同年二月に手角浦の手の物(者)が、菅浦側に拘束されたが、手角の者は両浦の入相(会)地だと主張した。手角浦から菅浦と北浦に先代之儀を申し入れ、北浦の年寄衆から菅浦側に意見したが、菅浦は納得しなかった。そのため、入会を認めない菅浦と認める北浦の境界について改めて定め、手角浦と長海浦からは入会を認める北浦側に樽二合が送られた。今後、菅浦と北浦との間に問題が発生して申し入れがあった際の証拠として、長海浦と手角浦の年寄である能海又(右)衛門尉家歳が確認した内容を杵田神主岡源大夫幸重が執筆して書置を作成した。それが寛政年間の裁判の証拠とされたのである。
 杵田神主とは長海浦の神社である現在の長海神社の神主であるが、源大夫とあることから源姓である。天文二一年四月一五日と翌二二年三月一三日には千酌郷内千酌の神社と郷内笠浦の神社が千酌郷地頭尼子国久により造営されているが、いずれも神主は宮代新右衛門で、地頭下代は岡又右衛門であった。源大夫と又右衛門は同族であろう。また、年寄野海は「又右衛門尉」とあることから、浦年寄であるとともに地侍的存在であった。天文一三年九月一七日に隠岐豊清が長海新庄清安寺に所領を寄進した際には、同時に家臣連署書状が出されているが、署判者としてみえる村上民部左衛門尉「幸歳」や寺本助右衛門尉「歳昌」との関係も想定できる。村上民部左衛門尉幸歳は、永禄六年三月には、隠岐氏一族である「隠新」とともに毛利氏と結ぼうとして鎮圧された「村民」と同一人物であると思われる。野海は千酌郷に隣接する加賀庄内野波の事だとすると、鎌倉初期以来加賀庄を支配してきた土屋氏の一族の可能性が高くなる。
 最初にみた段階では、個々の字の読みもあやふやで、どのような内容であるか理解できなかったが、史料の存在を市史の部会に提示し、市史に収録された翻刻文は、なお意味不明な部分はあるが、かなり正確なものとなっており、今回、検討した結果、以上のようになった。北浦、菅浦は美保郷内であり、長海庄内である手角浦、長海浦と同様、尼子氏の一族ないしは重臣が地頭として支配していたと思われるが、浦の境界については浦同士で取り決めをしていたことが分かる。これが尼子氏に訴えられるのは一方的な権利侵害が長期にわたった場合であろう。

2019年10月30日 (水)

近況一〇月末

 ラグビーW坏も残すところ、三位決定戦と決勝の二試合となった。本ブログでは二〇〇八年の開設当初からNZ代表のHC選考がゆがんできたことを述べており、ハンセン氏への個人攻撃を意図しているわけではない。日本代表の次期HCをめぐっても様々な憶測が乱れ飛んでいる。
 NZに勝利したイングランド代表ジョーンズHCのインタビューをみると、九七年にハンセン氏はクルセイダース、ジョーンズ氏はブランビーズを率いていたと述べているが、この年の九月にジョーンズ氏はサントリーFWコーチからブランビーズHCに転じている。一方、同年のクルセイダースのHCは現神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督スミス氏であり、ハンセン氏はクルセイダースの中核となるカンタベリー州代表HCディーンズのもとでACを務めていた。一九九九年のW坏後、スミス氏が代表HCに転出し、ディーンズ氏がクルセイダースHCとなり、ハンセン氏がACとなった。次いで二〇〇一年にウェールズ代表ヘンリー氏の要請を受け、そのACとなった。ハンセン氏はスーパーラグビーのHCの経験はないのである。ヘンリー氏は一九九八年にHCとなり、一九九九年W坏はベスト八に留まったが、チームの立て直したことを評価され、ブリティッシュ・アイリッシュライオンズ初の外国人HCとなったが、シックスネ-ションズの優勝はなく、二〇〇二年のアイルランド戦で大敗したことで辞任し、ハンセン氏がHCに昇格したが結果が出せなかったことはすでに述べた。二〇〇四年六月にハンセン氏が退任した翌年のシックスネーションズで、ウェールズは一二年ぶりに優勝している。
 ジョーンズ氏にしても成功と失敗を繰り返しており、二〇〇三年W坏の準優勝で豪州代表HCを続投したが、その途中で成績不振で解任されている。イングランド・プレミアリーグサラセンズHCも成績不振で解任されている。サントリーで成果を出したことで日本代表HCとなり、南アフリカからの勝利を実現したが、イングランド代表になった際は、日本と違い選手の自立性が高いラグビー発祥の地で成功できるだろうかとの疑問の声も少なからずあった。それを就任直後の試合で結果を出すことで、自信を失っていたチームを立て直した。
 イングランド代表の身体的データをみると、ロック四人中、二mが一人で他は、一九六cm(イトジェ)と一九八cmが二人である。NZ代表がロックで一九七cmのバレットをフランカーで起用したのは、ラインアウト対策だとされたが、二〇四cmのレタリックと二〇二cmのホワイトロックとともに、高さで劣るイングランドのラインアウトを乱す意図であったことは気づかなかった。決勝戦のポイントは、二〇四cmと二〇五cmの先発二人に加えて控えにも二〇六cmがいる南アがラインアウトでイングランドに対して優位に立てるかであろう。それがなければ、イングランドが明確な差をつけて勝利すると思われる。イングランドのラインアウトを指導するのは日本代表HCジョンーンズ氏の時と同じくボーイズウィック氏で、イングランド代表(主将)時から、ジョーンズ氏にスポットコーチとしてサントリーに招かれ、引退後はフルタイムコーチとして日本代表HCエディー氏を支えてきた。ラインアウト指導のスペシャリストとして知られている。日本・南ア戦では、モールとラインアウトで予想以上に南アが優位に立ち、日本が先にスタミナ切れに追い込まれた。NZ代表については一九八七年のW坏以来試合をみているが、ラインアウトは得手ではないように思っていた。高さに劣るメンバーであったときだけではなく、背の高いロックを揃えた時も同様であった。三位決定戦は決勝とは異なり、NZ・ウェールズ両チームとも選手の疲労を考慮したメンバー起用となった。ハンセン、ガットランド両HCとも最後の代表戦となる。ガットランド氏はW坏後NZに戻ってチーフスHCとなり、ハンセン氏は休養期間を挟んでトヨタ・ヴェルブリッツHCとなるとされる。日本代表のスコット・ハンセンACの前任のデフェンスコーチであったプラムツリー氏はハリケーンズHCとして、チームをスーパーラグビー準決勝まで導き、まずまずの結果を出している。ベテランで、NZ、南アで実績を上げた指導者であった。
 本日は午前中のLG坏の準決勝と午後の女子穹窿山兵聖杯一回戦が予定されている。二年前は井山四冠が決勝戦まで進んだが、今年は日本勢は結果を出せなかった。別の世界戦ではベスト八が中国七、日本一と韓国が惨敗したが、LG坏は二試合とも中国と韓国勢の対局である。女子は謝依旻六段、藤沢里菜四段、上野愛咲美三段の国内三強が勝利できるかがポイントである。最近、藤沢・上野棋士は棋力がアップしているが、それでも中韓勢から勝利することは大変である。

 

 

2019年10月27日 (日)

近況から9

 要はスーパーラグビーの優勝監督からHCを選ばなければならないことである。現代表ACのフォスターはチーフスを八年間率いて二〇〇九年準優勝一回であり、条件を満たしていない。今回アイルランドとウェールズのHCであったシュミットとガットランドも同様である。ディーンズ退任後八年間優勝のなかったクルセイダースを再建して三連覇を達成したスコット・ロバートソン(日本のリコーで一年間プレイ)しかない。その他では、レニー(チーフス、二〇一二・一三)、ジョセフ(ハイランダース、二〇一五)、ボイド(ハリケーンズ、二〇一六)が優勝経験がある。ジョセフが評価されるのは、ハイランダースが拠点とするオタゴが人口が少なく選手層が薄いためである。三年前にジョセフが日本代表HCに転出すると、ACであったブラウンが一年間HCとなり、後任のメィジャーHCにつないだ。メイジャーは一年目は前年度までの財産によりまずまずであったが、二年目の今年は低迷し、三年契約最後の年は、ブラウンがACとして戻って補佐をすることになった。ブラウンはオタゴ州出身である。来年に再度のHC昇格の可能性が強いが、日本代表のジョセフ体制が継続となれば、どうなるかわからない。
 以上、実績・手腕に基づくHC選考をすべきことを述べた。二〇〇三年大会でハートHCのNZ代表が敗れた際に、Jスポーツラグビーの解説者小林深緑郎氏が、若手の優秀な指導者がいくらでもおり、心配ないとコメントしていた。そして、No1のクルセイダースHCスミスが選ばれたが、既に述べたように協会が二年で更迭し、HC経験の無いミッチェルに交替させた。スミスが更迭されて以来、その時点のNZのNo1指導者が代表HCとなっていない。ちなみに、ミッチェルは二〇一八年のイングランド代表の不振をうけて、HCジョーンズからスタッフに招聘されたとの記事を読んだ。
 囲碁では、井山四冠vs芝野名人の王座戦挑戦手合いが始まり、第一局は最後の最後まで形勢不明の末に芝野挑戦者が半目勝をおさめた。コミ七目半の中国ルールに基づく最強ソフトの形勢判断が示されているが、どうしても白有利の判定となり、プロ棋士でもその意味を正しく理解できないもよう。終盤は白番井山四冠優勢の判定であったが、六目半の日本の対局で接戦の場合は参考にならない。二局目以降も同様の精度となる可能性が高い。女流本因坊戦(藤沢vs上野)第二局も接戦となろう。第一局はこれまたソフトの判定があてにならない接戦であった。第二局の新聞解説の高尾九段は、藤沢秀行門下では最多タイトルを獲得している棋士で、「ヒカル」のモデルとなった棋士であるが、同門の両棋士には最近の対局で勝ち星を献上している。藤沢四段は名人戦最終予選では決勝に進出し、女性棋士として初のリーグ入りまであと一勝に迫っているが、決勝戦の相手は一力八段である。今後しばらく、男子は井山・一力・芝野がタイトルを争い(許八段は実力では一歩遅れている)、女子は藤沢・上野の争いとなろうが、五人とも国内戦だけでなく、国際戦での勝利を目指している。

 

近況から8

 W坏は準決勝第一試合まで終わり、今夜、ウェールズ・南ア戦がある。NZに対するイングランドのデフェンスは、南アが日本戦で行ったものと同じものであったが、NZは接点で劣勢となり防禦を突破できなかった。もとより三連覇は至難の業だが、今回のNZはチームとしての戦略と工夫に欠けていた。以前からハンセンHCには実績がないことを述べてきたが、それが証明された形である。二〇〇二年にヘンリーHCの退任により、ウェールズ代表ACからHCとなったが、シックスネーションズの成績は三シーズンで三勝一二敗と散々であった。ところが、NZ協会がルールを変えてヘンリーを代表HCとしたことで、棚からぼた餅でACとなった。ヘンリーのABは南半球三ヵ国対抗で一年目こそ最下位であったが、その後は三連覇してW坏を迎えた。本番では王座奪回が期待されたが準々決勝でフランスに敗れた。当然、クルセイダースHCデーンズの代表HC起用が有力視されたが、協会は二〇一一年大会へ向けてヘンリー・ハンセン体制を継続させた。また、その後はACハンセンのHC昇格が有力視されたため、ディーンズは豪州代表HCとなり一一年大会を戦ったがNZに敗れ三位に終わった。若手育成に効果があったとして留任したが、二〇一三年にホームで迎えたブリティッシュ・アイリッシュライオンズ戦で一勝二敗と負け越したため、任期途中での退任となり、翌年からパナソニックHCとなった。
 NZは二〇一一年大会で一九八七年大会以来二度目の優勝を果たしたが、その功績はバックス担当ACで、過去に代表HCの経験のあるスミスにあった。スミスはその後、チーフスのACとしてHCレニーのもとで、スーパー・ラグビー二連覇を果たし、二〇一五年大会を控えた二〇一四年一二月にNZのACに復帰し、二連覇に貢献した。それが二〇一七年に退任し、翌年から神戸製鋼コベルコスティラーズの総監督に就任し、チームを再建し、一年目でトップリーグと日本選手権で優勝した。スミス退任により二〇一九大会のNZ三連覇は難しくなったことを述べた。根拠はハンセンHCの手腕であった。二〇一六年には初めてアイルランドに敗れ、二〇一八年にはアイルランドと南アフリカに敗れ、イングランドには一点差の辛勝で、これが今回のイングランドの自信につながった。二〇一九年には南アフリカとは引き分けるが、豪州に大敗し、世界ランキング一位から陥落した。これを契機にWTBに新たな選手を入れたことはすでに述べたとおりである。ハンセンがHCとACとして一二年間代表に関わったことは、新たな選手の起用の少なさにつながった。今回のイングランド代表の二人の若手フランカーの活躍とは対照的である。なお、ジョーンズHCがハンセン氏はトップリーグトヨタ・ヴェルブリッツのHCとなることを暴露したが、現在の南ア出身のホワイトHCは退任するのであろうか。ホワイト氏の管轄外であるが、二人の選手が麻薬使用で逮捕され、チームは現在活動を自粛している。NZキャプテンのリードも次年度はトヨタ入りが発表されている。

 

2019年10月20日 (日)

近況から7

 南アフリカ戦の日を迎えた。前日の二試合は大差となったが、実際の力量差は小差である。アイルランドは初戦のスコットランド戦と日本戦の最初の二〇分こそ、主導権を握ったが、残りの六〇分とNZ戦は力を出させてもらえなかった。訓練されたNZには組織的・戦略的プレーより、単純な作戦が有効であることは、アイルランドの二トライが証明している。スコットランドの日本戦のトライも同様であった。二〇〇三年のハートHCのNZ代表は、それまでの常識を覆した小柄でスピードとフィットネスに優れたチームであったが、これまた単純な力勝負で敗北した。最初のつまづきは、トラーネーションの最終豪州戦で、ここでは豪州のねらいすましたプレーで出足を止められ、力勝負に持ち込まれた。W坏フランス戦でも、単純なプレーにデフェンスが機能せずに敗北した。
 本大会の南ア戦でも最初は押され気味であったが、得点は許さず、相手の動きを見切ってからは、小さな穴を引き裂いてトライをあげた。日本も最初は押され気味となろうが、ここで失点を最小限にできるかである。アイルランドは昨秋のNZ戦では一六得点で、相手をノートライの九点に抑えて勝利した。今回も二トライ一四点を挙げたが、大量失点で敗退した。
 気象庁のデータを見ると、気温は昨日から三~四度上昇し二二度、湿度は二〇%以上下がって七〇%台と予想され、英-豪州戦と同様の環境となりそうだ。本日の大分は気温はマイナス一度、湿度は一〇%ほど低下するようで、昨日より環境はよい。NZ-アイルランド戦は一〇〇%近い湿度であったが、ボールがすべる感じはせず、大分の試合ではノックオンが目立った。気温の違いが影響しているのであろうか。今日を乗り越えると、あと二試合(準決勝と決勝・三位決定戦)みられるが、壁は高く、越えるのは容易ではない。
 なお、歴史の作業も継続して行っているが、まとまるまで至っておらず、ここしばらくアップしていない。本日は、本庄地域の地図に、切図と検地帳の地名を入力している。風土記の関係であろうか、渡し場のあった朝酌地区の検地帳・切り図は調査され、報告書にまとめられているが、その活用はほとんどされていない。その一方で、北岸の一部が中世の平浜八幡領であったため、寺社の関係文書が翻刻されているが、花押の人物比定をサボって、ことごとく某としており、お粗末なものとなっている。松江市史編纂事業も今年度一杯だと聞いた。かろうじて編纂室が借りていた切り図を見ることができた。前も述べたが、頭でっかちで足下が弱い内容となっており、これを活用して足腰を強化しないと、結局、活用されずに終わってしまう。市史講座は行われているが、多くの市民は見る側・聞く側にとどまっている。

2019年10月19日 (土)

近況から6

 九州のラグビーチームと言えば、以前は大分舞鶴高校であったが、近年は東福岡高校である。一五年大会の代表藤田選手の出身校で、全国大会ベスト四以上の常連校で、優勝も多い。二大会連続の代表となったトライゲッター福岡選手は、現在の日本ラグビー協会森重隆会長(新日鉄釜石の全盛期のメンバーで、引退後、福岡高校監督もつとめる)とともに県立福岡高校の出身である。SH流選手は大牟田市の出身であるが、勧誘されて熊本県北部の荒尾高校から帝京大学へ進んだ。明日が命日である平尾選手が山口良治氏に伏見工業に勧誘されたのと同じである。このような選手を生んだ背景にも宗政氏の取り組みがあったが、2017年1月に宿泊先の東京で急死された。サニックス自体も太陽光発電で業績を伸ばしてきたが、九州電力が原発再稼働に伴い、太陽光発電の買い取りを制限したことで、急ブレーキがかかっており、今後については不透明な面があるようだ。サニックスは現在はトップリーグ宗像サニックスブルースとなり、ロックであるムーアが代表として活躍している。同じ九州のチームにはコカコーラ・レッドスパークスがあり、FBトウポウが代表に選ばれ、不動のCTBラファエレも2018年シーズンまで同チームに在籍していた。駅伝では有名だが、ラグビーでは無名な山梨学院大学(関東大学リーグ二部)に誘われ来日したが、卒業時にコカコーラの総監督向井昭吾氏から勧誘があり、入団したという。向井氏は東芝のFBで日本代表経験者であったが、引退後は指導者となり、2003年大会のHCであった。日本代表には2016年11月のアルゼンチン戦で追加招集で初キャップを得た。
 ジョセフ氏は七シーズンにわたってサニックスに在籍し、現役を続ける一方で、高校を回って指導もしていた。そうした中で日本代表主将マコーミックミックからの誘いがあり、悩んだ末にバショップ氏とともに平尾ジャパンの一員としてW坏に参加した。チームは福岡県社会人Cリーグからスタートし、西日本Aリーグに昇格したところで、チームに迷惑をかけることを心配したが、理解を得て参加したという。ジョセフ氏は実業団チームの中で、バショップ氏とともにプロ契約選手であり、練習と仕事を両立するメンバーとの人間関係の構築にも苦労したとしている。
 氏はニュージーランド時代のW坏には良い思い出はなく、日本代表が145失点した試合の先発メンバーであったが、日本から勧誘を受けた際には記憶はなかったという。1999年大会のメインズHCが辞任し、協会は最後の切り札として、これまで二度にわたってHC選出を拒否してきたハート氏をHCとした。ハート氏は失意により実業家に転身していたが、ラグビー界に復帰した。2003年大会でフランスに敗れたことは何度も述べたとおりである。1987年の第1回大会で優勝したニュージーランド代表は時期HCの最有力候補であったハート氏が率いて来日して日本選抜と試合をしている。バショップ氏はその際に初選出で来日していた。日本のジャーナリストが先発に起用された20才のバショップ選手にアポをとってインタビューを敢行したが、同室であった主将シェルフォードが帰ってきて、Noと言われ、退出したことを述べている。主将は団長と共に、個室であったが、他のベテラン選手に譲って若手のバショップと同室にしてもらい、教育していたという。シェルフォード氏も指導者となったが、ニュージーランド国内では目立った成果を上げられなかった。
 ともあれ、準々決勝四試合は予想不可能で楽しみである。日本代表にとっては一位通過により、相手がニュージーランドから南アフリカに変わった以上に、試合日が一日延びたのが大きい。アイルランド戦と同様、前半が競った展開となれば、勝機は十分であろうが、前半の予測は不可能である。

 

近況から5

 ラグビーW坏も今日から決勝トーナメントが始まる。大分でのイングランド・オーストラリア戦と東京でのニュージーランド・アイルランド戦である。前者は好天が予想され、後者は降雨の可能性もある。グループ1位チームが有利であるが、後者は降雨がニュージーランドにややマイナスとの観測もある。何度も述べたが、同じ相手と三回やって三連勝するのは極めて困難なカードばかりである。十分な情報を持っておらず、好ゲームを期待するとしか述べようがない。言えるのは、最終段階でメンバー入りしたブリッジとリースの両WTBがABを変える可能性があることか。一年前までなら、日本生まれのリーコ・イオネアが注目選手であったが、控えにも入っていない。
 イングランドは一八連勝でストップ後、やや波があるようにみえるが、ジョーンズHCが意図的に頂点をW坏に持っていくためのものであったなら、優勝の可能性が高くなるが、どうであろうか。ウェールズは今年の六ヶ国対抗で全勝優勝したが、最下位であったイタリア戦を含め、どの試合も接戦をものにしており、不思議なチームである。南アフリカは、以前は後半のフィットネスに課題があったが、現在のエラスムスHC体制ではかなり改善されている。とはいえ、勝利するチームはここで南アフリカを上回らなければならない。反則や一時的退場が勝敗を決めることも十分にある。日本は大会前(九月八日)の南アフリカ戦は勝利ではなく、三〇点以内に抑えることを目標としていたが、達成できず四一失点であった。勝利するには二〇点以内に抑えることが条件となろう。プラス材料としては、フッカー堀江(欠場)、ロックムーア(控え)の存在であろうか。SHは智翠館OBの茂野が起用されたが、本大会では三人目で、控えにも入らず、流・田中のコンビである。とはいえ、一人が負傷するような事態となれば、その存在は重要となる。
 ジョセフ氏がNZ代表の地位を捨てる形で、来日した経過が不明であるが、新チームを作ろうとしたサニックスの創業者宗政氏の情熱が大きかったようである。一緒に来日したSHバショップ氏は、一九九五年大会で、メインズHCがベテランSHとして代表に復帰させた選手で、ほぼ代表選手のキャリアをまっとうしたといってよかったが、ジョセフ氏は二五才で二〇キャップでこれからの選手であった。宗政氏はラグビーの経験はなかったが、会社のイメージアップを兼ねてラグビーに私財を投じたとされる。今年で二〇周年となったワールドユースの大会には日本から八チーム(内九州四)、海外から八チームを招いて行われている。ニュージーランドからは高校No1のチームが参加することもよくあり、最多の一〇回の優勝を誇っている。今年は南アフリカのチームが優勝している。今回のW坏の参加選手にはこのユース大会の参加選手が二五名いると紹介されている。前述のニュージーランドWTBリースもその一人で、当時から代表となることが確実視されていたという。アイルランドの中心選手セクストンや日本代表のラファエレも参加している。

2019年10月13日 (日)

近況から4

 井山四冠と許家元八段の天元戦第一局は、許八段の中押し勝となった。以前の井山四冠は国内戦では、優勢な碁を逆転されることはほとんどなかったが、最近はそうでもない。この対局も終盤まで優勢であったが、死ぬはずのない大石が死んだため、大逆転となった。芝野名人との王座戦も始まるが、勝敗はともかく、両対局者が本領を発揮した対局となることを期待する。
 おかげ坏国際は五月開催のおかげ坏の成績でメンバーが決まるのだろうが、まだ日本棋院のサイトには掲載されていない。男性は一位芝野名人、二位安達六段、三位一力八段であろうか。女性はベスト八に藤沢四段、上野三段、岩田初段(関西棋院)の三人が残っていたが、男子と違い代表決定戦がされたとの情報は掲載されていない。いずれにせよ、若手の棋戦で女性三名がベスト八に入っていることは、男女の差が縮まっていることを示している。
 昨年度のおかげ坏国際で唯一位四戦全勝だった韓国代表申眞諝九段(一九才)は、夢百合坏では二回戦で中国の丁浩六段に敗れた。今年六月のTVアジア杯決勝では申九段が勝利していた。一力八段はアジア杯は初戦で丁六段(一九才)に敗れており、今回、夢百合坏三回戦で雪辱したことになる。やはりベスト八に残った中国の許嘉陽八段(二〇才)はアジア杯初戦で申九段に敗れている。アジア杯は、日中韓三ヵ国のTV早碁棋戦の優勝者・準優勝者と前年度優勝者の七名で争われる棋戦である。日本人棋士の優勝は2013年大会に井山四冠が優勝したのが最後である。持ち回りであるが、日本と韓国で開催する大会はコミ六目半、中国では七目半で行われる。
 中国や韓国でも芝野名人と同世代の棋士が活躍し、国際戦の実績では芝野名人を上回っている。芝野名人は二年前の二〇才未満の棋士で行われるグロービス坏でベスト四に入ったのが最高である。昨年は予選リーグ敗退、今年はベスト八にとどまっている。優勝は五年前の第一回大会の一力七段のみである。
補足:第四回夢百合坏は三回戦残りの五局が終わり、前回が韓国勢同士の決勝戦であったのとは様変わりし、ベスト八は一力八段以外は中国勢が独占した。来年三月に準々決勝が行われるが、一力八段の相手は謝科七段一九才となった。2015年にベスト八、二〇一七年にはベスト四入りしている。中国の若手は次から次へと台頭し、長期間にわたって地位を維持するのは本当に実力のある棋士のみである。日本でも一二月で一四才の福岡航太郎初段がいるが、切磋琢磨するライバルがたくさんいないと苦しい。中国勢は一〇代半ばから世界戦で活躍している。

近況から3

 ラグビーW坏の試合開催の可否が間もなく発表されるが、根拠に基づき決定するしかない。釜石での試合は中止となったが、ボランティアの協力を得る事や、グランドの状況から判断したのだろう。囲碁では第四回夢百合坏世界囲碁オープン戦が行われている(持時間は二時間、決勝のみ三時間)。中国や韓国では予選に基づき参加者を決めているようだが、日本は選考で決めている。芝野新名人や井山四冠は国内の挑戦手合の日程と重なり、参加できなかったと思われる。三人と一人の招待選手(最年少の仲邑薫初段)が参加したが、初戦を突破してベスト三二に入ったのは一力八段のみであった。一力八段はその後の二回戦と三回戦も勝利し、ベスト八である。ロシアの棋士が初戦を突破して注目された。
 昨年は三名中二名(河野・高尾九段)が初戦を突破したが、二回戦で敗れている。ワイルドカードで日本の囲碁ソフトDeepZenGoが参加したが、これも予想を裏切り二回戦で敗退。昨年は四回戦まで行い、準決勝と決勝はそれぞれ日をおいて行われている。ベスト一六に残った一力八段と中国、韓国の各一名は日本で行われるおかげ坏国際精鋭囲碁対抗戦(日本、中国、韓国、台湾の三〇才以下の棋士五名=男三、女二による団体戦)参加のため、今日の対局を一日早めて行った。一力八段と中国の許嘉陽八段は準々決勝進出を決めての参加であった。
 よくは知らないが、youtubeで最強ソフト絶芸を参照しつつ、対局終了後それほど時間をおかずに解説をアップしているサイトがある。プロ棋士ではないと思われるが、アマトップクラスの棋力があって、ソフトを使えば解説ができるようだ。一力八段の二回戦、三回戦と名人戦第五局をみたが、悪くない印象を受けた。名人戦を主宰する朝日新聞のサイトでは河野九段が解説をしていたが、人間とソフトの判定が異なることもある。河野九段は芝野挑戦者の二段バネを勝着としていたが、ソフトはその後、張名人がコウにした手を敗着とし、当たりに対してついで辛抱していれば半目勝負としていた。
 最終戦でアイルランドに敗れたサモアのHCは流石に世界二強だとコメントしていたが、残りの一強はどこであろうか。サモアの問題点はメンバーで行う練習時間が不足しており、とりわけ組織的ディフェンスができないことだろう。攻撃は最大の防禦が実行できればこのような点差にはならなかったであろう。日本代表は一九九九年大会は、パシフィックリム大会を五勝一敗で優勝して臨んだが、六月に初めて勝利したサモアに九対四三と完敗し、不思議な感じがした。当時は選手の所属企業の理解が得られず、六月の大会から一〇月のW坏までに選手が集まって行った全体練習は一週間程度であり、現在のサモアの状況に近かったそうだ。一九九五年大会のNZ代表SHバショップ氏(キャップ31)とフランカージョセフ氏(キャップ20)が翌年にラグビー部が新設されたサニックスに入り、日本代表にも選ばれた。本来は代表となるために来日したのではなく、九九年大会の日本代表キャプテンであったマコーミックから打診があったとのこと。その後、代表経験のある選手は移籍した他国の代表にはなれなくなった。
 今大会でフランスに二一対二三と善戦したトンガであったが、W坏直前のNZとの試合では七対九二で大敗している。W坏初戦のイングランド戦は三対三五で敗れているが、このトンガとの試合のスコアがフランス、NZ、イングランドの実力を反映しているわけではない。

近況から2

 台風一九号による被害は甚大で、関係者の御労苦は大変と推察する。一五号に引き続いて被災された地域はさらに大変だが、その反省から今回は行政の対応が改善した。ただ、避難を勧告されても逃げることができない人がおり、行政による根本的な対応が求められる。
 一九五八年の狩野川台風と昨年の七月豪雨の倉敷市の被害をネットで確認した。狩野川台風は途中、当時の最低気圧の記録を更新する八七七ミリバールを記録したが、上陸前に勢力を急激に弱めたため、今回と比べて被災した地域は限られた。とはいえ、上陸した伊豆半島は六〇〇名以上の死者が出て、大変な被害であったようだ。
 自己の体験では一九七二年の豪雨で宍道湖があふれたが、国道九号線の南側ではごく一部が浸水したのにとどまった。ただし、松江城近くには当時の床上浸水のレベルが表示してあり、大変であったと思われる。部活の大会で西部江川沿いの桜江町川戸の旅館に泊まったが、七二年の被害は大きく、JRの駅にやはり浸水レベルが表示されていた。
 一九八三年の西部の水害では、浜田市長沢町の下宿が床上浸水となったが、自身の部屋は二階であった。勤務先の高校の校舎では床上浸水はギリギリセーフであったが、教員住宅は一部がつかって車を処分せざるをえない人も出た。益田川が氾濫し、益田市の高校では一階天井まで水につかった。三隅町の水害も大変であり、向野田の町営住宅付近もその時は天井近くまで水につかったそうだ。五年後の一九八八年にも三隅町で水害があり、その際は担任している生徒と被災した生徒の居住地へ行き復旧の手伝いを行った。
 一九八三年の際には長沢は以前は水田が多く、ここまで水につからなかったことを聞いた。二〇一八年七月の豪雨で岡山県倉敷市真備町で五一名が死亡し、小田川流域の住宅の多くが水につかった。この地域は一〇年に一度程度の頻度で水害に襲われていたが、過去の教訓はいかされず、なんとかなるのではと思った住民が多かったことが、事後アンケートから指摘されている。今回は雨量そのものは必ずしも多くはなかったが、岡山大の研究者が作成した報告書をみると、一九世紀末までは被災地域の大半には住宅がなかった。人々は過去の被害を踏まえていたのである。それが上流のダムの整備と人口増により水害危険地域が次々と住宅地に変わってしまった。もっと上流のダムを建設すればよいとか、土手を高くすれば良いとの妄言をはく無能な政治家が多いが、それは問題解決にはつながらない。今回の台風により過去の記録が更新され、上流のダムによる放流が相次いだ。豪雨の範囲が際立って広かったことによるが、力ずくの対策は弱者の状況をさらに悪化させるだけである。

 

2019年10月10日 (木)

近況から

 囲碁名人戦は初の一〇代名人の誕生となった。挑戦者は日々進化を続けており、最終局でも誰もが予期しなかった手で勝勢を確立した。女流本因坊戦では二一才と一七才の戦いとなり、第一局はこれも一瞬の隙を突いた手で勝敗が決まった。結果的には黒番の上野挑戦者優勢の状況から終盤にほぼ互角となり、最後に白番の藤沢本因坊が勝利した。兄弟子にあたる高尾九段のブログで勝敗を決した場面の解説がされている。YouTubeにコメントを載せる人はある程度は囲碁を知っているのだろうが、両対局者にははるかに及ばない。その自覚のないままにコメントをしており、現在のネットに寄せられるコメントとよく似ている。上野挑戦者の男女棋戦準優勝により、YouTubeの観戦者も多くなり、社会の関心が高まったようであるが、両者とも男性棋士との対局で六割以上の勝率で、国際棋戦でも成績が上昇しつつあり、その意味で注目すべき対局であろう。一九才の名人誕生で、今後は若手同士による七大タイトル戦(早碁ではベスト四が若手のみの棋戦あり)が増えることが期待できる。
 参考に表示されていた囲碁ソフトによる判定も混乱する(終局場面は黒番挑戦者の勝勢が九九%)ほどの手を打ったのだろうか。判定していたのは現在最強のソフトであるが、設定が中国式のコミ7目半であるため、日本の六目半に比べて白に有利な数字が出ることを踏まえてみなければならないようだ。以前、本因坊戦はコミ四目半、名人戦は五目(持碁の場合は白勝なので、実質的には五目半)と違う中で、林海峰・石田芳夫戦が行われ、四勝三敗で石田本因坊が防衛したことがあった(二七期。三〇期から五目半に変更)が、名人戦のルールでは林九段の勝利であった。日本国内の対戦成績で判断するのだろうが、中国主催の国際戦は七目半なので、日本以外を含めたデータで決めるべきではないか。二〇一五年一月には井山九段が日本ルールなら半目勝であるが、中国ルールであったため半目負となったことがあった。井山九段は優勢だった碁をミスで敗れた事を反省していたそうだが、終盤にはルールの違いを失念していたという。
 ラグビーW坏は一三日の日本-スコットランド戦で予選突破チームが決まる状況となった。いろいろなケースを解説している記事は無駄以外の何物でもない。現在では一二日のイングランド・フランス戦(横浜)が最も台風一九号の被害が大きそうであるが、本日、主催者から記者会見があるそうだ。引分なら両者に二ポイントとなるが、順位と決勝トーナメントの対戦相手が変わるため、そうならないことを期待するとしか言いようがない。何よりも一九号による災害を小さくするための対策が必要である。災害では弱者が最も大きな被害を受ける(この二文はW坏関係ではない)。
 ロシアは全敗で全日程を終えたが、気の毒な日程であった。前回大会の日本が初戦九月二〇日で一〇月一二日が第四戦であったが、今大会のロシアは九月二〇日初戦で三日早く終えている。これまでほとんど戦ったことのない格上の国々が相手であり、選手の疲労・ダメージは大変なものであったろう。どの試合も一部のメンバーを休める余裕はなかった。誰も言わないので、ここで確認しておく。最終戦がふがいないとの批判は間違いである。
 一〇月一〇日は前回の東京五輪の開会式の日であるが、過去のデータからもっとも好天な日を選んだそうだ。しかし近年の状況は大きく変わっている。W坏は開催地が分散しているが、八月の五輪開催時に同様な事態となったら対処不可能ではないか。東京周辺の地震の多さは住んだ経験のある人ならば常識である。
 ノーベル化学賞の発表があり、三名の中に日本人が含まれていたことはすばらしい事だが、ニュースでは他の二名の名前さえ省略し、三名の業績がどのように関わるのかの解説も省略されているものが多い。リチュウム・イオン電池開発への貢献が主な理由であるが、共同受賞者は三名までとなっており、四番目と評価された人との落差は大変大きい。いずれにせよ、宇宙船地球号の将来にもかかわる問題であり、国籍に特化した報道から脱却すべきであるが、スポーツ報道も同様にお寒い状況である。受賞者を支援した要素にも触れることは必要だが、賞賛されるべきは個人の努力である。平和賞の報道ではそのような傾向は少ないが、文学賞を含め他の賞は日本人に特化した報道に終始している。

 

2019年10月 7日 (月)

まもなく11年

 ラグビーW坏の予選リーグも残り1試合。スコットランド戦は両者の執念がぶつかりあう試合となるだろう。サモア戦でもみられたが、キックパスによるトライをいかに防げるかがポイントとなろう。
 オールブラックスのベン・スミスが、日本は優れた指導者のもとで成長しており、現在の状況は驚くことではないとのコメントを寄せている。スミスは二〇〇九年以来、オタゴを拠点とするハイランダースの選手であったが、そこに二〇一一年にHCとして来たのがジョセフ氏で、二〇一二年からオタゴ州代表のHCを務めたのがブラウンACであった。ともに日本でのラグビー経験が豊富な指導者であった。ハイランダースはニュージーランド南島南部のオタゴを中心にノースオタゴとサウスオタゴを加えて組織されるが、その圏域人口は三〇万人に過ぎない。中心都市ダニーデンは人口一三万人で、国内五番目、南島ではカンタベリーの中心都市クライストチャーチ(三九万人)に次ぐ2番目の都市である。国内最古のオタゴ大学を中心とする学園都市とのこと。学生が22%、三〇才未満の人口が45%というのは驚きである。ジョセフ、ブラウン両氏ともオタゴ大学出身であるが、ブラウン氏がオタゴ地方バルクーサ市の生まれに対して、ジョセフ氏は南島北部のマールボロの生まれのようだ。オタゴ大は名門大学で二万人の学生が在籍し、外国からの留学生もめずらしくないとのこと。両氏は六才違いで、ジョセフ氏が来日した1995年にブラウン氏がオタゴ州代表となっており、古くからの知り合いではなかった模様。
 オールブラックス(AB)最高のFBと評価されるベン・スミスは二三才で初めてABに選ばれるが、本格的に活躍して中心選手となるのは三年後の二〇一二年からである。前年にハイランダースHCとなったジョセフ氏がスミスをFBにコンバートしたことがきっかけとなった。現在ABのSHアーロン・スミスも世界最高のSHと言われるが、きっかけはハイランダースの正SHに起用されたことであった。それまでの選手もABに選ばれる選手であったが、ジョセフ氏が控えであったスミスを正SHに起用したことが飛躍のきっかけとなった。日本代表のSH田中選手も二〇一三年から四年間ハイランダースでスミスの控えのSHとしてプレーした。ベン・スミスの日本代表への評価はそのような背景でなされたものであった。
 囲碁の阿含・桐山坏は、張名人が前年度優勝の一力8段を破って優勝した。阿含坏も早碁の棋戦ではあるが、NHK坏、竜星戦(10分間の考慮時間後は1手30秒)と異なり、本戦2時間、決勝90分の持ち時間があり、使い切れば一手60秒となる。昨年度は一力8段が三棋戦すべて優勝し、今年度もNHK坏と竜星戦で優勝していたが、その連勝が途切れたことになる。ここまでの両者の対戦成績は張名人の1勝8敗であったが、ひさしぶりの勝利で、阿含坏5度目の優勝となった。張名人は対芝野8段でも1勝4敗であったが、挑戦手合第一局で勝利した。その後三連敗したが、今回の一力戦勝利で自信を取り戻したとしている。本日から始まる第五局が面白くなった。同棋戦は中国でも開催され、阿含・桐山坏日中決戦が行われる。今年が二一期目となるが、四期までは日本側が勝利したが、それ以降は二〇一五年に井山九段が勝利したのみで、日本側の五勝、中国側の一五勝となっている。張名人も二〇一三年に古力9段に敗れて以来で五回目の登場となるが、勝利はない。
 なお、今回のラグビーと囲碁の記事も、ネットで調べながら書いたものである。過去の自分の歴史をテーマとするブログ記事を読んで驚くこともあり、同じ事象について述べているのに、見解が矛盾していることもある。必ずしも後に書いた記事の方が良いとは限らないものもある。その意味でもこのあたりで見解をまとめることが必要である。

 

2019年10月 6日 (日)

弁慶伝説の補足2

 枕木保を支配した東長田氏の没落と、華蔵寺の衰退も連動している可能性があり、これに対して、末次保と春日末社(法喜庄)の領家である臨済宗東福寺の影響が及び、そこから僧を招いて臨済宗寺院として再生したのであろう。南北朝期以降の長海本庄、新庄、ならびに枕木保、東西長田郷は守護関係者ならびに幕府領となった可能性が大きく、このことが康暦二年に諸山位に列せられた背景であろう。前年の康暦政変の結果、出雲守護は京極高秀から山名義幸に交替している。後の記録であるが「枕木山古日記」には弘元〔和ヵ=南朝年号〕・康禄〔暦〕・明徳年中に義幸の弟満幸が田畑〔畠〕を寄附したことが記されており、諸山昇格にも山名氏の後押しがあったと思われる。長海本新庄はこの時点では守護山名氏領であり、明徳の乱後は守護京極氏領となったと思われる。次いで戦国期は尼子氏領となり、塩冶興久の乱後、尼子氏から隠岐豊清に与えられたのであろう。
 中世の長海新庄が定田数五一町五反に対して、一七世紀中頃の新庄村と邑生村、上宇部尾村の田数を合計すると約七三町である。あるいはこれに現在の下宇部尾を含めた領域が長海新庄に相当する可能性がある。これに対して、手角村、長海村、本庄村(谷部分は除く)が本庄内であろうか。文永八年の一〇〇町余から一七世紀中頃には二〇〇町弱に田数が増加している。明治初年にはさらに増加して四〇〇町強である。
 近世における町と呼ばれたのは本庄町のみであるが、邑生村には立町という地名がみえ、海岸部から枕木山へのルート沿いにも町場的空間があったと思われるが、今後、具体的地名の場所の比定をしていきたい。
(補足)寛永年間のものである出雲・隠岐堀尾山城守家中給知帳には「在郷町家数」が記されているが、都市的空間であったはずの、秋鹿町、意東町、加茂町、庄原町とともに、本庄町もリストから漏れている。一方、本庄町には寛永一二年三月の地銭帳が残されている。原本は未見であるが、家数五五軒と記されているとのこと。給知帳でそれ以上の軒数であるのは、多い順に(HPの地図を参照)富田、杵築、今市、平田、美保関、三刀屋、赤穴、木次・横田・田儀の一〇ヵ町である。寛永一一年に堀尾氏から京極氏に藩主が交替しており、京極氏が作成した地銭帳であった。藩主が変わったことで扱いが変わったとの解釈も可能だが、給知帳そのものも実態とは違うように思われる。城下町松江に近い地域は、本来、規模が大きかったはずであるが、軒数が少なく、離れた地域の軒数が多いのである。リストになかった五町も松江に近い地域のみである。城下町建設により近隣の町から城下へ移転させられたこともあったであろうが、一方ではリストの数字は建前のものと考えられる。とはいえ、リストにない町は戦国期まではあった(戦国大名ではなく、町の間で決める)市日を、藩によって剥奪されたのではないか。近世後期に加茂町が市として認めるよう藩に訴えていた史料が想起される。公的には町でなくなったが、実態は町であった。また、リストにある町の軒数も、松江に近い町は数字を減らされたもので、実態は違っていたとすべきであろう。

弁慶伝説の補足1

 現在、本庄公民館で行う話の準備をしており、その作業により訂正が必要なものに気づいたので、以下で述べたい。
 近世の本庄地域の理解が十分ではなかったが、現在は検地帳をみて、そこに記された地名を、明治九年の地租改正時の字調のものと対照している。中世の枕木保は定田数二三町七反であるが、これに対して、枕木山を含む近世の別所村の慶安二年の田数は八町六反五畝しかなく、弁慶関係の遺跡がある野原村の慶安三年の田数が一三町である。少なくともこの二村は枕木保内であろう。これに本庄川の上流域も枕木保に含まれた可能性がある。
 切図(地籍図)をみていないため、個々の地名の現地を比定するのは今後の作業であるが、野原町の範囲も、現在の本庄中地域(本庄小は邑生町)まで含んでいる。また枕木町の範囲も長海川流域の上流域を含んでいる。各町の範囲についてはグーグルマップで確認出来る。
 そうすると枕木保の範囲が立券時の長海庄に含まれなかったのが不思議であるが、それに先行する形で枕木保が成立していたためであろう。保とは一一世紀以降、既存の耕作地を興廃させずに新たな開発を行った領域を指定し、雑役免除と保司による一部得分の取得を認めたものだが、枕木山にある天台宗華蔵寺領としての側面があったのだろう。勝部宿祢一族の東長田氏が文永八年の枕木保地頭としてみえることから、本庄地域の開発も勝部宿祢一族が中心となったと思われる。ただし、長海庄は蓮華王院領加賀庄とともに平家没官領とされ、東国御家人が地頭に補任された可能性が高く、文永八年段階でも勝部宿祢領であった枕木保とは明暗を分けた。長海本庄と長海新庄は円勝寺領であることに変わりはなかったが、実質的には幕府領となり、幕府が領家を決定し、地頭を補任していた。本庄は領家であった持明院家の基盛が将軍宗尊親王の側近であったため、地頭にも補任されたが、新庄は地頭は不設置で、德大寺が領家であった。ともに円勝寺を開基した待賢門院の関係者である。

 

2019年10月 3日 (木)

万田庄と楯縫郡3

 以上、寄進・成立した万田庄(寄進者は勝部宿祢一族であろう)に対して久木新大夫が源義憲と結んで介入(国衙在庁官人からの介入ヵ)した事件とその関連事項をみた。同年三月末には源義朝が藤原清隆の後押しにより叙爵するとともに下野守に補任されているが、この時期の清隆は大宰権帥として現地に赴任する一方で、子光隆(但馬・備中)と定隆(但馬・加賀)、清成・頼季(共に筑前)が受領を歴任していた。また、出雲国の西隣伯耆国の国守は清隆娘と平範家の間に生まれた平親範であった。実際の支配は父範家ないしは母方の祖父清隆が行っていたと思われる。
 なお多久氏の出自であるが、多久郷の範囲は文永八年の田数からすると、現在の出雲市多久谷町、多久町にかけての地域(園町、鹿園寺町は坂保に修正)と出雲市斐川町中洲・黒目・三分市地域であろう。後者が久木村であるが、複数の川が宍道湖に流れ込む三角州地帯で、田数は少なかったと思われる。多久郷の東隣は小境保で、文永八年の地頭小境二郎の子孫が南北朝期の小境氏であろうが、そこでは「伊藤氏」を名乗っており、これは小境氏が藤原姓であったことを示している。建久二年七月 日出雲国在庁官人等解には一二人が署判を加えているが、最有力である庁事五名の内訳は、序列一位の勝部宿祢、二位・三位の中原朝臣、四位の藤原朝臣、五位の出雲朝臣である。残る七名は、六位の藤原朝臣(ただし建久五年の解には署判なし)、七、八・九・一二位の勝部宿祢、一〇・一一位の出雲宿祢(建久五年には忠康一名のみ)である。
 多久氏も小境氏と同様藤原朝臣一族であった可能性が高い(本来の神門系から大原系勝部宿祢に交替と修正する)。有力在庁官人の中には一ノ谷合戦に参加したものもみられ、参加した当人は没落したが、同族がその後継を認められた可能性が高い。多久氏は藤原朝臣惣領(大原系勝部宿祢の一員に修正)であったが没落し、その藤原朝臣は小境保等の継承は認められた。多久郷は承久の乱時に謀反人跡として没収され、頼朝とも関係が深い中氏が地頭に補任されたのであろう。承久の乱ではより多くの所領が没収され、東国御家人が新恩地頭として入部してくるが、小境氏はその中でも生きのびたのである。ただし、建長元年の大社遷宮注進状に署判している在庁官人には藤原朝臣はみえず、その地位は低下していた。

万田庄と楯縫郡2

 為義の子義憲が忠盛の妻宗子や子頼盛と結ぶのがピンとこない人があろうが、宗子の母と為義の母はともに日野氏の出身で従姉妹の関係にあった。また、摂関家の侍となった為義等の清和源氏が摂関家領の庄官となることが多かったことも指摘されている。久木新大夫が名字の地とする久木は縦縫郡多久郷に属するが、南側に張り出し、摂関家領出雲郡福頼庄(現在の庄原から学頭にかけての地域)と境を接していた。福頼庄を通じて久木新大夫と義憲が結びついたのではないか。久木が所属する多久郷を苗字とする多久氏は、一ノ谷合戦の出雲国からの参加者として「多久七郎」がみえる(『源平盛衰記』)ように、出雲国の有力在庁官人であった可能性が高い。
 これに対して文永八年の地頭中二郎入道は、頼朝が伊豆国で挙兵後、治承四年八月二八日に相模国に進軍した際に従った人々の中にみえる、中四郎惟重・中八惟平の一族であろう(『吾妻鏡』)。両人は中原氏の一族で、地名を苗字にしていないことから在地の武士ではない。京下りで頼朝を支えた吏僚として中原久経、中原親能、中原広元が知られている。平家方となった多久七郎の所帯が没収され、そこに地頭として中氏一族が補任されたのであろう。
 仁平三年一一月末時点の出雲守は藤原基隆の子経隆で、翌四年正月に源光保に交替している。光保は美濃源氏で鳥羽院北面であったが、娘が院の寵愛を受けたことで登用され、初任受領として出雲守に補任された。経隆は基隆の嫡子忠隆の同母弟であるが、忠隆の妻藤原栄子は夜の関白と呼ばれた勧修寺流藤原顕隆の娘で崇德天皇の乳母となっている。経隆は大治四年~五年にかけて父基隆(知行国主)のもとで出雲守に在任したが、基隆が待賢門院御願寺法金剛院供養に際して、御堂造進の功により従三位に叙されたことに伴い、讃岐守に遷任し、次いで但馬守に遷任後、藤原光隆と相博する形で二度目の出雲守に補任された。なお初回時の後任は源能俊の子で基隆の養子となった九才の光隆であり、出雲国は待賢門院の分国とされたと思われる。
 前述のように、経隆が出雲守在任中に、出雲大社領が崇德院に寄進されたと考えられる。経隆在任中の仁平二年八月一五日には法成寺上座法橋増仁が出雲国飯石社を崇德の御願寺成勝寺に寄進している。増仁は天養二年二月六日に但馬国朝間寺を成勝寺に寄進しているが、これも経隆が但馬守在任中であった。

 

万田庄と楯縫郡1

 楯縫郡の庄園万田庄は文永八年(一二七一)杵築大社三月会頭役結番帳では万田本庄(田数二〇町)と万田新庄(一六町四反二四〇歩)に分かれている。楯縫郡は勝部宿祢一族の中心的拠点の一つで、万田庄と三津庄(三町)を除けば全て公領で、その比率は八割を超えている。文永八年の地頭では、中二郎入道(多久郷)、平賀蔵人(佐香保)、多胡三郎兵衛尉(平田保)が東国御家人で、朝山右衛門尉跡(楯縫東郷・西郷、三津庄)、小境二郎(小境保)、玖潭四郎(玖潭社)、万田二郎太郎(万田本庄)、万田七郎(万田新庄)が国御家人である。現在の本庄町が本庄、万田町が新庄に相当すると考えられる。新庄が楯縫郡の西端に位置し、出雲郡宇賀郷と境を接している。
 結番帳に見える庄園の中で本庄と新庄に分かれているのは、能義郡富田庄、島根郡長海庄、大原郡淀庄、神門郡神西(薗山)庄と万田庄の五例だが、一一五六年の保元新制が出される前に、庄園として寄進・立券が行われていたと思われる。万田庄は早くから開発が進み、中核部分として不輸権を認められた東部=本庄と、より大きな川に近く、開発が進みつつあり、雑役のみを免除された西部に分かれ、西部が後に新庄として独立したのであろう。
 文治二年(一一八六)九月一五日の年記を持つ鰐淵寺古記録には、仁平三年(一一五三)一一月二七日に久木新大夫と鰐淵寺唯乗房が万田庄をめぐる相論を行い、三郎先生源義憲が方人をして、鰐淵山を焼き払ったことが記されている。これによればすでに万田庄は立券・成立していたが、為義の子義憲と結ぶ久木新大夫が介入を試み、鰐淵寺唯乗房がこれを防ごうとして合戦となったことがわかる。文永八年の地頭は勝部宿祢一族であり、その系図には鰐淵寺僧が複数名記されている。
 源義憲は為義の三男であるが、次男義賢(義仲の父)の同母弟で、長子義朝の異母弟であった。後に常陸国志田庄を本拠としたことから志田先生と呼ばれた。志田庄は同年一二月に本家美福門院、領家藤原宗子(忠盛妻池禅尼、美福門院の養子となった崇德院の子重仁親王の乳母)という体制で立券された。当時の常陸介は宗子の子平頼盛であり、その立庄はスムーズに行われたと思われる。その準備は忠盛により行われたであろうが、仁平三年正月一五日に五八才で死亡している。久安三年一一月一四日に平宗盛が常陸介に補任されたとの記事があるが(『本朝世紀』)、清盛の子宗盛はこの年に生まれたばかりであり、忠盛の嫡子とされる家盛の誤りであろう。家盛は久安五年に鳥羽院の熊野参詣に同行した際に体調を崩し、帰京した直後に病没した。その後任となったのが同母弟頼盛であり、保元の乱後に常陸介から安芸守に遷任している。なお、義憲は保元の乱には参加しなかったようで、父や兄弟と異なり、その後も生きのびている。

 

2019年10月 2日 (水)

国造・神主と造営3

 延慶元年一二月一〇日関東御教書で、守護貞清からの申状を受けて、国造に造営記録を急ぎ進覧せよとの命令が出されているが、造営のためというよりも、この裁判の予備調査の段階で、幕府が貞清に注進を命じた結果出されたものであろう。正和元年(一三一二)五月二〇日六波羅御教書でも関東御教書に任せて文書を帯して参洛せよとの命令が出ている。そして正和三年七月一六日には領家兼嗣が三崎社検校職に虎一丸を補任しているのは、この裁判を意識してのものであったろう。こうした中、造営は進まなかったと思われる。
 元亨三年(一三二三)三月五日には幕府が大社仮殿造営について正税の半分をその財源としたが、実際には行われていないとして、他の税・負担に経替えて沙汰するとの国造からの申し出を幕府が認めている。弘安の造営は規模のみならず質的にも簡素なものであり、短期間で新たな造営が必要となったため、文保二年二月の天皇の代替り=後醍醐天皇の即位を契機として、再び開始されたのだろう。この前後の出雲守についてはほとんど史料がなく不明である。嘉暦二年九月五日にも、計画した三分二弱の料米しか確保できていないとして、反別三升米を宛て課し、造営を遂げるように幕府が神主に伝えている。今回の造営では院宣・国司庁宣が残されておらず、幕府中心で行われたと思われるが、やはり進展しなかった。
 以上のように、鎌倉末にいたるまで、領家と国造の間で裁判が続き、幕府が前面に出ての造営もうまくいかなかった。
 題名とは異なり、造営事業と裁判が中心となったが、国造家の分立でも、現任者の寿命が残り少なくなっても後継者が未成年だったことが影響したことを述べた。戦国期の国造家でも、北島国造雅孝は尼子経久の娘との間に男子が誕生し、成人年齢に達したが、雅孝に先立ち死亡したため、国造になることはなく、その後は後継者争いが続いた。千家国造家でも男子がおらず、娘聟に国造の地位を譲ったが、その聟が大内氏の出雲国攻撃の際に、大内氏方となり、その敗退とともに、出雲国を離れてしまった。娘と聟との間には男子がいたが、未成年であったため、娘に新たな聟を迎えた。その後、後継者であった男子が国造となる事はなく、新たな聟の実子が国造を後継して今に到っている。

 

国造・神主と造営2

 泰孝が神主に復帰したことが確認できるのは、永仁七年三月二九日関東御教書で、そこでは神主泰孝代実泰からの申し入れを受けて、大社造営奉行に対して造営を急ぐとともに状況の注進を命じている。その前年に幕府から六波羅探題に対して、大社造営が国衙の無沙汰により終わっていないとして、関東申次西園寺殿に申し入れるとともに、正税を造営に宛てることと、弘安年間に靱負尉二〇人の免除を行った先例に基づくよう申し入れている。この幕府からの支援と圧力により、泰孝の復帰が実現したと思われる。一旦、完了したはずの造営・遷宮が規模が先例に基づかないため事業の再開が必要との論理で、国造の神主復帰が実現した。
 申し入れを受けて、正安二年(一三〇〇)二月には知行国主日野俊光の袖判を持つ国司庁宣が出され、国造に国衙・社家相共に造営の功を完了するよう命じている。また前述のように直接関係者に宛てた幕府御教書が出されていく。閏七月二五日には幕府が、守護信濃次郎左衛門尉貞清、朝山二郎左衛門尉時綱、多祢二郎左衛門尉頼茂等とともに、造営を奉行することを神主に命じている。一方、七月には惣社造営用途として乃白郷に代えて三刀屋郷が宛てられているように、惣社の造営も進んでいなかった。
 九月二八日には伏見上皇院宣が出されたが、翌三年一月に知行国主が藤原為方に交替したため、九月には宇多院院宣が出され、一二月には再度幕府が神主に造営の奉行を行うよう命じ、翌四年には造営料として国内に反別三升米と材木以下を宛て課して造営の功を終えるよう、命じている。しかし嘉元元年にはまたも知行国主が西園寺公衡に交替したため、院宣をうけて八月二二日には出雲国宣が出された。
 嘉元三年九月一五日には亀山院が五七才で死亡した。これにより、松殿兼嗣が領家に復帰したと思われる。一方、国造泰孝は徳治二年(一三〇七)一二月五日に譲状を作成して間もなく死亡し、孝時が国造となった。すると、神主職の裁判で敗れた出雲実政の関係者が、兼嗣から雑掌(預所)に補任され、神主孝時への圧迫を強めた。これに対して、国造は雑掌が社領等を押領したとして訴え、延慶二年(一三〇九)から幕府で領家と神主の関係について裁判が始まった。前回の裁判では事情に不案内な領家廊御方のもとでの裁判であったため国造側に有利に働いたが、今回は事情を熟知し支證を持つ兼嗣とその雑掌との裁判であった。国造側は神主補任については正和三年に結論が出たとするが、建武三年の裁判で国造側が提出した正和三年八月二七日関東下知状では、社領を神主が知行する支證の提出を求められた事しかわからない。裁判は続いていたのである。

 

国造・神主と造営1

 すでに述べたように、国造職は現任者の死亡により譲状が発効して後継者が継承するが、一方では年齢制限があったため、相続問題が発生した。国造系譜でも前任者の死亡により交替したように記されている。弘長二年(一二六二)一二月三日に出雲義孝が嫡子泰孝に国造職と惣検校職を譲っているが、文永五年正月 日領家兼嗣袖判下文により泰孝が神主(惣検校)職に補任されている。これに先立ち文永二年八月二二日には幕府が義孝譲状に任せ泰孝を神魂社領大庭・田尻保地頭職に補任しているが、神主には譲状に任せなどという文言はない。
 文永七年正月に出雲大社本殿が焼失すると、領家は国衙目代と結び、泰孝に代えて出雲実政を神主に補任して造営をすすめようとするが、その後実政に不忠があったとして父真高に交替させた。その真高も国造義孝の所持する旧記を見ることができず、仮殿造営が進まなかったため、領家は泰孝の父義孝を神主に補任した。国造義孝は弘安四年(一二八一)三月には大社造営は国造兼神主でなければ造営・遷宮を遂げた例は無いとの注進状を作成した。その後間もなく死亡し、子である泰孝が国造職を継承した。弘安一〇年ないし一一年には造営が完了し、遷宮が行われた。この時点では、三度目の蒙古襲来に備えた番役負担も続いており、現実的に可能な規模で事業は完了した。一方、大社領の本家は弘安八年に安嘉門院が死亡したことにより亀山院に交替した。亀山院はそれまでの領家松殿兼嗣を更迭し、某御房を補任した。次いで、自らのと間に子を産んだ廊御方を起用した。
 造営・遷宮の完了と本家と領家の交替が、元神主出雲実政の神主職復帰を実現した。これに対して国造泰孝は幕府に訴えたが、その際に幕府御家人であることと、造営旧記を重代に所持してきたことを主張した。正応五年(一二九二)七月九日には幕府が国造の主張を認め、六波羅探題に、領家廊御方に泰孝の神主補任を申し入れるよう命じている。ただし、神主補任権は幕府にはないため、これが実現したとは限らない。その一方で、前領家松殿兼嗣が、本家が交替しても領家職を重代相伝してきており、本家による更迭は無効であることを、幕府に訴え、裁判が行われていた。永仁五年(一二九七)二月一一日には六波羅探題が実政の越訴を退けたことを、国造に伝えている。現在、北島家文書として残る元暦元年一〇月二八日源頼朝袖判下文はこの裁判の過程で作成されたものであろう。

 

2019年10月 1日 (火)

園山庄領家吉田経房と五辻斎院

 園山庄の領家が吉田経房であることは確認できるが、本家については、経房譲状の前欠部分に園山庄が記されていたとみられること、経房孫で嫡子とされた資経の譲状には他の庄園と異なり、単に園山庄とのみあることで不明である。そうした中、経房と斎院頒子親王の関係を確認したい。
 頒子親王は鳥羽院と閑院流藤原実能の娘春日局(美福門院女房)との間に、久安元年(一一四五)に生まれている。誕生年がわかる子としては最年少である。承安元年六月二八日に斎院となったが、病気により八月一四日には斎院を退下しており、以後は前斎院ないしは御所の場所から五辻斎院と呼ばれた。
 文治二年八月二一日前斎院庁下文には別当右衛門権左平朝臣以下が署判を加えているが、その多くは吉田経房の関係者である。署判順に、別当平棟範は平範家の子であるが、経房の妻は範家の娘である。左京権太夫藤原光綱は経房の弟、勘解由次官兼皇后宮権大進藤原定経は経房の嫡子、前安房守藤原有経も在任中の安房国知行国主は経房であり、何度も経房の使者として派遣されたことが確認できる(『玉葉』)。正治二年二月二八日吉田経房処分状にみえる庄園でも、周防国石国庄、河内国高瀬庄、安房国群房庄内広瀬郷、下野国大内庄が、斎院領、前斎院領、五辻斎院領と記されている。その一方で、本家を記さず相伝私領とのみ記す常陸国吉春牧もある。
 五辻斎院領であった紀伊国南部庄は、伊勢斎宮守子内親王(1123~41)領から父鳥羽院と母春日局を経て五辻斎院頒子内親王領となった。守子内親王の父は白河院の異母弟輔仁親王である。守子の異母姉怡子女王も賀茂斎院(1133~59)をつとめている。
 前に藤原光隆と斎院範子内親王の関係をみたが、光隆とその父清隆は平範家を通じて吉田経房ともつながっていた。経房は上西門院と建春門院の別当を務めていた。建春門院滋子は上西門院女房であったこともあって、その女房には上西門院女房から遷ってきたものが多い。これは滋子自身が待賢門院・崇德院流に属していためである。

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