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2019年9月22日 (日)

国造館と大社政所

 以前、①年未詳五月二日領家中納言僧都御房袖判出雲実政奉御教書と②一〇月二八日沙弥法願書状について、①は正安四年(一三〇二)のもので、②もそれ以降のものであることを述べた。②によれば、元実政で今は実孝を名乗る人物について、国造側から問い合わせがあり、それに回答するとともに支証として①の正文が進められたことがわかる。②では①について実政が預所職に補任され、細引・桑原田沙汰人中に命令を出したものだと説明されている。②の年代上の下限は亀山院の死亡(嘉元三年九月一五日)をうけて領家が交替する前なので、②は正安四年から嘉元二年(一三〇四)のものである。この後、松殿兼嗣が領家に復活し、そのもとでは以前に兼嗣に対して不忠のあった実政ではなく、その一族である孝覚(後に孝助と改名)が預所(雑掌)に補任された。この雑掌孝助が社領を押領したとして、国造側が幕府に訴えて延慶二年から裁判が始まった。
 問題は①が北島家文書、②が千家文書として保管されていることである。建武政権が崩壊後、雑掌孝助と国造孝時の間で裁判が再開され、支証として京都に持って行った①に対して、補助的文書である②は使用されなかったのだろう。その結果、①は造営旧記や泰孝譲状、孝時譲状とともに北島貞孝が保管し、②は大社政所に保管されていたのであろう。大社政所文書は明治以降、神主が千家国造に一本化されたことにより千家文書となった。
 千家国造家の所蔵する金輪造営図は、雑掌との裁判のため造営旧記とともに京都へ持って行った「差図」ではない。差図は北島家が所有しており、金輪造営図は後になって宝治二年までの本殿とその周辺の情報を残すために千家国造家で作成されたものであろう。千家国造家には「出雲大社并神郷絵図」も所蔵されている。この絵の美術的技法については判断する情報を持たないが、大社境内の西側に描かれた建物は大社政所であると考えるべきである。これが両国造家の分立後は、政所の一角が千家国造家の館を兼ねた。これに対して、絵図には明確に描かれていないが、境内の中に国造館があったはずである。国造館を描かないことから「絵図」の成立も金輪造営図に準じて考えるべきであろう。一四世紀半ばの国造清孝の時代に、雲樹寺の孤峰覚明に帰依して、雲樹寺を勧請してこれを神宮寺としたが、神宮寺は境内ではなくその東側に建立された。これが、戦国大名尼子経久により、境内の中に仏教的施設である三重塔、経蔵、鐘楼並びに覚明にちなむ三光堂が設置された。 

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