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2019年9月27日 (金)

牧の方の娘の結婚相手

 国会図書館に複写を依頼していた『明月記研究』収録論文が届いたので、一部補足したい。題名で選んだので、自分が思ったのとは全く違う内容のものもあった。
 五味文彦氏「縁に見る朝幕関係-『明月記』と『吾妻鏡』の間-」(第五号)については、Googleブックで検索をして、その記載内容を伺うことができたが、一部であり、正確を期して複写した。牧の方と北条時政の娘で平賀朝雅の室となっていた女性が、元久二年閏七月二六日朝雅が討たれて間もなく滋野井実宣と結婚している。それに先立ち時政も伊豆に幽閉されたが、死亡したのは一〇年後の建保三年(一二一五)正月六日で、七八歳であった。一方、牧の方は幽閉されることなく上京し京都で生活するが、その後も時に鎌倉に下ることもあったとされる。
 これまで度々問題点を指摘してきた杉橋隆夫氏「牧の方の出身と政治的位置-池禅尼と頼朝と-」でも、時政死亡の一二年後の安貞元年に、牧の方が娘の再婚相手藤原国通宅で、時政の一三年忌の御堂供養を行い、次いで子孫の女房を連れて天王寺と南都七大寺参詣に出かけたことが紹介され(『明月記』)、将軍廃立を企て、おそらくは関東を追われた身でありながら、いかにしてかかる地位を保ちえたのか、そのあたりの事情を牧の方の出自にまでさかのぼって検討している。ただし、杉橋氏がその事情とした牧の方の父宗親が、池禅尼の弟である点はまったく証明されず、確認できるのはそれを明確に否定する点ばかりである。牧氏が平頼盛に仕え、京都とのかかわりがあったことは間違いないが、池禅尼の弟宗親と牧の方の父宗親は別人である。
 五味氏の論文では、藤原泰通の次男国通が同年齢の異母兄経通が、承元二年(一二〇八)に蔵人頭となったが、順徳の即位により止められ、後鳥羽院への訴えにより、建暦元年(一二一一)にやっと復任するという出世状況をみて、このままでは自分が蔵人頭に補任されるのは難しいとして、時政娘との結婚を考え、建保二年(一二一四)正月に兄が参議に昇進した跡の蔵人頭に補任されたとする。この時点で国通は三九歳であり、時政娘も同世代と思われる。国通の前に時政の別の娘を室としていた滋野井公時の次男実宣(年齢は国通の一才下)が蔵人頭に補任されたのは建永二年(一二〇七)二月であり、これ以前に時政娘と結婚していたことになる。国通の結婚時期も、兄の蔵人頭補任後まもない時期であったと思われる。
 実宣と国通が時政娘と結婚したのは牧の方の出自とは無関係で、幕政を主導する北条氏との関係を結ぶためであった。北条氏側にもメリットがあった。それだけではなく、誰もかれもが北条氏との婚姻を結べたわけではなく、実宣、国通ともに頼朝もその構成員である待賢門院・崇德院流に属していたことがその背景にあった。

 

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