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2019年9月29日 (日)

金輪造営図と神郷図1

 現在の出雲大社国造家文書は千家文書と北島家文書に分かれている。出雲大社文書と呼ばれるものは、両国造家から寄進されたものである。一方、国造家文書とは別に出雲大社政所文書というべきものがあった。政所は大社領の管理や神事の執行を行い、その責任者である神主は領家が補任し、国造以外の人物が神主となることは、一三世紀末までは珍しいことではなかった。
 政所文書は出雲大社領が寄進・立券されて以降の文書であるが、それ以前は出雲国衙の中に政所に相当する機関があり、在庁官人がその支配に当たっていた。国造はあくまでも一宮である出雲大社の祭祀を担当する職であった。国造家とは出雲宿祢家の中で出雲大社の祭祀にあたる家であるが、父子間の直系相続とは限らず、兄弟間の相続や、出雲宿祢一族の別の家が新たな国造家となることもあった。その過程では激しい相続争いがあった。
 一四世紀半ばに両国造家が分立したことにより、千家文書と北島家文書に分かれたが、国造兼神主は両家が月番で務めたため、政所文書は両属というべき状態にあった。これが明治六年に政府の命令で千家国造家に一本化されたため、政所文書は千家文書に吸収されてしまった。よって、中世の出雲大社を分析する際には、それが政所文書であるか、国造家文書であるかを区別した上で作業を行わなければならない。表題の二資料はいずれも千家国造家に伝わったものであるが、その作成時期は中世前期ではなく、室町後期であることを論証するため、その前提となる点から一つ一つ再確認したい。そのためには国造家の分立の実際がどうであったかを避けて通れないため、まずはその点から始める。
 応安三年(一三七〇)八月二八日大社神官等連署申状(千家文書)には、「貞孝が得たと号している文書は、国造と大社領家の裁判のため京都に持って行かれたものだが、孝景が抑留したため、清孝に返すよう幕府御教書が出された。ところが孝景が質入れしたため、請渡しを求め、孝景が自筆の文書目録等を清孝提出しながら、実際には貞孝方に渡してしまった。その後孝景が死亡したため、孝宗が孝景子息時孝宛の御教書を出してもらい沙汰してきた。」と述べている。
 以上の内容は、裁判の申状の常で、当事者の一方の主張にすぎず、個々について検討が必要である。上記の文書の背景には国造家の分立があったが、それは国造泰孝が譲状を作成した時点からの問題であった。泰孝の後継者として孝時と福得丸がいたのである。現在の国造家系図では、孝時、福得丸のいずれも泰孝室覚日の子であるように記されているが、実際は、泰孝がその晩年に出雲守護塩冶頼泰の娘を室に迎え、生まれたのが福得丸であった。国造系図では覚日を貞清の娘とするが、年代的に無理がある。出雲守護佐々木泰清と国造義孝、その子の頼泰と泰孝が同世代であった。泰孝には後継者はいたが、年の離れた頼泰の娘を新たな室として迎え、生まれたのが福得丸であった。泰孝の「泰」は守護泰清にちなむものであろう。晩年の子を寵愛するのは世の常であるが、福得丸には国造を継承できる成人年齢に達していないという問題があった。泰孝が福得丸が元服するまで健在なら問題はなかったが、譲状と置文を作成したのはその死期が迫っていたからである。

 

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