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2019年9月15日 (日)

本朝通鑑と国造家3

 再び惣検校を更迭された国造側は、国造の惣検校補任が望ましいとする在庁官人解状を領家建久二年七月に提出して再考を求めた。その際の根拠として作成したのが造営旧記であった。当然のことながら、ライバル資忠が行った文治二年から建久元年に至る造営に関する史料は写されていない。唯一、造営が終わり、朝廷からそれを認める命令が出たことのみを記している。国造が惣検校となったのは文治二年五月の更迭以来であり、在任期間も遷宮の前後と限られていたが、その短い期間に関係史料から写して作成した。よくある誤りだが、前の記事を受けて「同年」と記した部分で誤ってしまい、「天永三年」の遷宮を「同=永久」三年と解釈せざるを得なかった。ところが、造営・遷宮を行った藤原顕頼は永久二年末に出雲守から三河守に遷任しており、解状では「永久二年」と記した。弘安四年に遷宮は常に国造兼神主が行ってきたとの注進状を作成した国造義孝も「永久二年」と解釈し、南北朝初期には旧記を「治暦・永久旧記」と呼んでいる(治暦・天永旧記である)。これに対して『大日本史料』の編者も困ったが、とりあえずは遷宮の記事を永久三年に入れた。
 領家も、すぐに判断はだせないので、翌三年七月になって四年度の惣検校補任の下文を出した。当然、それまでは資忠が惣検校である。また新たな結論も資忠の留任であった。この一連の過程をみれば、領家の意思は明確であった。国造がどれほど多数の在庁官人の署名を得ても関係なかった。資忠の実績は大社本殿の造営や大社領の管理で証明されていた。それに、頼朝の支援があった。頼朝は資忠のみならず、出雲国目代にも御家人兵衛尉政綱の起用を求め、知行国主藤原朝方の同意を得ていた。文治二年以来の造営事業は頼朝の御家人である資忠と政綱により行われ、頼朝もこれを全面的にバックアップしていた。ただし、目代政綱は文治五年に義経との関係を疑われ解任された。後任は不明である。

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