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2019年9月19日 (木)

出雲大社領の寄進時期2

 所領の寄進時期を記すのは建武三年出雲孝時申状土代のみであり、治暦三年二月一日遷宮の翌①治暦四年四月二日に遙堪社領が、永久二年六月一八日(ただしこれが誤りであることは何度も述べたとおり)遷宮直後の②同年一一月二五日に遙堪河手郷が、久安元年一一月二五日遷宮直後の③一二月二二日に武志郷と鳥屋郷が、建久元年六月一八日遷宮翌年の④同二年四月二六日に大田郷が寄進されている。最後の安貞二年八月二五日は幕府によるとされるが、知行国主二条定輔が死亡した安貞元年七月と、平有時(知行国主は平有親であろう)が補任された一年一〇月の一〇ヶ月後である。
 造営・遷宮を行った出雲守との関係でいうと、①は藤原章俊の後任藤原宗美の時期であり、②は藤原顕頼が遷任する直前、③は久安二年一二月の光隆遷任の一年前、④は藤原朝経が死亡して出雲守が交替する建久八年の六年前である。一般的には、国司が庄園の寄進・立券を認めるのは任期終了間際が多く(国免庄)、新任の国司がそれを公領に戻すことも珍しくないとされる。杵築社への寄進は庄園一般の寄進とは違うが、寄進が行われるのは造営・遷宮を行った国司の任期内であり、造営ははるか先の問題としか考えられない新任の国司が寄進をすることは考えにくい。
 以上の検討結果から、建武三年孝時申状土代に記された寄進の年次は信憑性が低く、遷宮時に寄進されたと思われる。伊志見郷も幕府ではなく、宝治二年の遷宮時に知行国主平有親が寄進したものであろう。幕府が寄進者なら地頭職も考えられるが、康元元年の注進状の記載内容は他の所領と変わらない。このような検討は当然必要だが、他の研究者は全くされないのが不可思議である。
  

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