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2019年9月15日 (日)

本朝通鑑と国造家4

 治承・寿永の乱で平氏方となった出雲国関係者もおり、国内の三分一程度は東国御家人が地頭に補任されていた。彼らにとっては一宮出雲大社はなじみがなかったが、頼朝の命とあれば従わざるを得なかった。その結果、惣検校交替から四年後に遷宮を行うことができた。過去の三度の遷宮も、仮殿遷宮後三から五年後に行われており、遜色はなかった。この次の宝治の遷宮は、仮殿遷宮の二一年後であった。惣検校が造営旧記を参照できず、造営が進まない点があったが、旧記を所持した国造政孝の子義孝が補任されてからでも一三年後であった。守護佐々木氏が支援したが、承久の乱後、八割は東国御家人が地頭に補任されており、且つ、頼朝の支援とはレベルが違っていた。
 春斎に働きかけた二人の内、佐草自清は千家から北島方上官である佐草家に養子に入っている。両国造家も対立するだけでなく、協力もしていたことがわかる。過去の歴史資料を調査し、『出雲国造等勘文案』を作成し、建武三年頃の国造孝時解状土代も彼が写しを作成し、佐草家に残されてきた。これがなければ出雲大社史の解明は相当程度困難であった。
 その中でも自清は前述の『本朝通鑑』の内容とともに、資忠が遷宮直前に更迭された理由を「遷宮旧記」を帯していなかったためともしているが真っ赤な嘘である。承久の乱までは、出雲国衙や大社政所に関係書類は保存されていた。それが承久の乱で、当時の惣検校であった中原孝高をはじめとする出雲国衙の有力在庁官人の大半が没落した(国造が属する出雲宿祢一族も没落し、その結果、相対的に国造の地位が向上した。)際に、関係史料は失われたと思われる。孝高は在庁官人No2の中原頼辰の息子であったが、国造孝房の外戚でもあり、惣検校に補任されていた。
 『通鑑』の建治二年の項には、文治二年の内容を繰り返した上で、資忠の孫孝高が国造孝綱と惣検校をめぐり争ったことと、孝高の子実高と孫実政も国造と惣検校を巡り「動争」したと記す。何と、国造家のライバルをすべて中原氏にしてしまったのである。実際、中原氏であったのは孝高のみで、資忠と実高・実政父子は出雲宿祢一族であった。二〇〇四年までは、これが歴史の偽造であることが研究者にも認識されておらず「中原資忠」「中原実政」と記されていた。
 頼朝と光隆の関係については、両者とも「待賢門院流」に属するが、それだけでなく、光隆の父清隆が頼朝の父義朝の叙爵・下野守補任を実現したこと、頼朝の同母妹坊門姫が光隆の坊門亭で育てられたこと、義朝の母藤原忠清の娘が、父忠清の出家により、為義との結婚や義朝出産時には忠清の甥清隆の庇護下にあり、それが平治の乱後、孫娘を伴い、清隆の嫡子光隆を頼ったことは既に述べたとおりである。

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