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2019年9月17日 (火)

姉小路親王令旨

 嘉禄元年四月二一日権大僧都某奉御教書があるが、原本は残っていないようで、それを収録した国造系譜では「姉小路親王令旨」と呼ばれている。別当に対し、大社神主職について承明門院令旨を遵行すべきことを伝えている。具体的には神主職は神殿造営に依り補任される相伝職だとして、出雲政孝の訴えを認め、政孝を神主職に補任するという命令である。
 本来、神主補任権は領家の権限であり、普段なら効力を持ったかは疑問であるが、前年に領家雅隆が死亡し、弟家隆に領家が交替した隙を突く形で政孝が訴えたのであろう。建治二年二月 日領家下文では嘉禄造営時に政孝が旧記を持っていたために神主に補任されたと記されており、領家家隆も認めたと思われる(同時期の下文が残っているのに、なぜ補任の下文がみられないかは不明だが、不都合な内容も記されていたのであろうか)。
 当該文書にはどこにも姉小路親王の名は記されておらず、承明門院令旨と呼ぶべきではないか。姉小路ならず綾小路親王とは、土御門院の第二皇子尊守で、後嵯峨院(邦仁王)より一〇年長の異母兄で、嘉禄元年には一六歳である。元仁一年(一二二四)七月二八日には綾小路殿で伝法灌頂を受け、安貞一年(一二二七)一二月には阿波(土御門)院皇子が綾小路千日入堂したことが見える。次いで寛喜三年(一二三一)四月二五日には比丘尼観如が督三品(参議兼右兵衛督藤原雅経ヵ。観如は大江広元娘ヵ)の遺領である大和国曽我庄外五庄を、無品尊守親王に譲り、朝廷がこれを安堵している。
 嘉禎元年一二月二九日には紀伊国阿弖河庄預所を湯浅宗光室とその子の二代安堵するという桜井宮(鳥羽院子覚仁法親王)袖判下文(法橋某が奉じている、鎌倉遺文四八七八)が出されているが、これには、宮(桜井)御方御文一通(大弐僧正奉)と承明門院御教書一通が副えられていた。後者は最初に述べた文書と同形式であったと思われる。

 

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