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2019年9月15日 (日)

本朝通鑑と国造家1

 ここのところ記事をアップしていないが、松江市史講座の準備で余裕がなかったからである。昨日終わったので、その直前に気づかされた点について述べてみたい。
 『本朝通鑑』は江戸幕府の命を受けた林羅山・春斎父子が編纂した編年体の通史である。朝廷、諸大名、寺社などに史料の提出を求め、寛文一〇年(一六七〇)に完成している。七年間での完成は早いが、その前提となる作業として、林羅山が家光の命を受けて正保元年(一六四四)に完成した『本朝編年録』があった。これが明暦の大火(一六五七)の大火で焼失したため、この増補完成版として『本朝通鑑』が編纂された。倫理的な判断よりも史実を重視したと評価されている。同様に、『本朝編年録』の焼失を機に編纂が始まったのが、徳川光圀の『大日本史』であるが、こちらは倫理的な判断を重視しており、近代の歴史家久米邦武からは劇本の類いと批判されたが、哲学者西田幾多郎からは高く評価されたという(この部分はWikipediaを参照した)。
 『大日本史』編纂の最大の目的としては天皇に補任された将軍の正当性を明らかにすることがあり、朱子学の大義名分の立場から、南北朝の分立については南朝を正当とした。とはいえ、『大日本史』の詳細を現時点では把握していないので、この程度としておく。
 この問題については西岡和彦氏『近世出雲大社の基礎的研究』に述べられているが、林春斎のもとに国造家関係者(嶋市之丞と佐草自清)が訪れ、『吾妻鏡』から漏れた出雲国造の惣検校職兼務の史実を書き入れるよう依頼し、その史料を提供した(漏れたのではなく、そのような事実はなかった)。当時の出雲大社も「出雲国總検校職」であることを保証させ、一〇郡すべての神社への支配権を得るためであった。ただし、後に佐陀神社との裁判に敗れ、藩主松平氏から二郡(島根郡、縦縫郡)半(意宇郡西部)は佐陀神社の支配とされた。これに不満を持つ両国造家は、幕府に訴えようとして(いわゆる越訴=直訴である)、藩主の怒りをかい、当主二人が隠居されられ、国造を子に交替させられた。
 西岡氏の著書では、建治二年の項に、国造側の史料が挿入されたことのみ記されているが、国会図書館デジタルで『本朝通鑑』を閲覧すると、文治二年の項にも、挿入されていた。『通鑑』としては、完全に事実として認定しているのではなく、一つの主張として挿入しているが、読む人によっては、これが事実であるとのお墨付きを得たと思い込んでしまう。

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