koewokiku(HPへ)

« 出雲大社領の寄進時期2 | トップページ | 国造館と大社政所 »

2019年9月22日 (日)

在庁官人出雲宿祢の没落

 承久の乱で在庁官人中勝部宿祢に次ぐ勢力を持っていた中原朝臣が没落し、杵築社神主であった孝高(頼辰の子)も姿を消すことはすでに述べた。わずかに生き残ったのは文永八年に津田郷地頭としてみえる秋鹿二郎女子である。当時の秋鹿郷地頭は土屋五郎忠泰なので、建久五年の郷司であった中原頼辰の関係者であろう。
 国造家は杵築社本家が土御門院で、領家藤原雅隆も承久の乱に関与しなかったため、影響は小さかったと思われる。内蔵孝元も幕府との密接な関係から、乱に加担したとは考えられない。ただし、孝元解任後国富郷地頭に補任された内蔵孝幸は乱で地頭職は没収されたようで、宝治元年の地頭は幕府評定衆にもなった大宰少弐狩野為佐であった。一方鰐淵寺は、経田・神田への濫妨をした国富郷地頭代官孝綱が三月会頭役を勤めるようなら、三月会の役を勤仕しないとして、大社神官らが孝綱の解任を求める解状を提出している。孝綱は孝幸ではなく、天福元年に一度は大社神主に補任された孝元の関係者であろう。内蔵氏が出雲宿祢一族であったことはすでに述べたとおりである。
 出雲宿祢一族は建久年間には庁事(序列五位一名)と大判官代(二名)を出し、藤原朝臣(序列四位の庁事と大判官代各一名)と並んで、勝部宿祢と中原朝臣に次ぐ勢力を有していたが、建長元年の注進状では、中原朝臣と同様、姿を消している。幕府の御家人となっていた国造家と内蔵氏の一部を除き、在庁官人出雲宿祢も没落したことになる。これは見方を変えれば、出雲宿祢一族や在庁官人の中で国造家と内蔵氏の占める位置が上昇したことになる。そして忌部総社神宮寺の記録には文永年中に内蔵孝元は守護により排除されたことが記されている。建治三年五月七日の沙弥(佐々木泰清)書状でも孝元について言及しており、記録の記事は実際の年次には疑問があるが、事実であったと思われる。これにより国造家の神主職をめぐるライバルは権検校から惣検校となった出雲実高・実政父子のみとなった。

« 出雲大社領の寄進時期2 | トップページ | 国造館と大社政所 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 出雲大社領の寄進時期2 | トップページ | 国造館と大社政所 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ