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2019年9月29日 (日)

金輪造営図と神郷図5

 何を意味するかというと、造営関係史料として千家国造が所持する「金輪造営図」がよく知られているが、これは本来の差図ではなく、差図が現在もあるとすれば北島国造家にあるということである。「金輪造営図」は過去の出雲大社の情報を保持するという目的に加えて、正統性を証明する史料の保有で北島家に対して劣勢である千家方が、別の情報を加えて作成したものである。作成時期は室町後期としておけば外れることはないであろう。そして同時期に作成されたのが、一三世紀後半から一四世紀初めに作成されたというのが通説となっている「出雲大社并神郷図」である。国造館と政所についてはすでに述べた通りだが、この図には政所が大変強調されて描かれている一方で、本来の国造館は消されている。丁度、現在、出雲大社のHPに記されている図と同じである。そこには北島国造館は無視されている。図がそれ以外の部分でどの程度事実を反映しているかは、不明としかいいようがないが、ここに描かれている大社本殿はその高さを推定する材料にはなりえないことだけは確かである。この図が国造家の分立前に作成されたものであるならば、それに関する情報は北島家にも当然なければならない。
 なお造営関係史料は千家文書にも含まれているが、これは本来、政所文書であったものである。また、国造家が神主を独占するようになると、国造家文書と政所文書の区別はあいまいになる。文永七年(一二七〇)正月に大社本殿が焼失するまでの三五年間は国造家が神主を独占し、その後も出雲真高・実政父子が神主となったが、いずれも短期間であった。神主となった実政の父真高が造営旧記を見ることができなかったことがそれを示している。造営旧記が国造家文書となり、神主であっても見ることができなかったのである。その後の領家との裁判の支證の中心として京都に持って行ったものと、孝時と覚日からの譲状等が北島文書となった。元暦元年一〇月二八日頼朝袖判下文が北島国造家に残っているのに対して、その家臣が発給者となった同年一一月二九日、文治二年正月 日、文治二年二月九日の平某下文は千家国造家に残っている。
 何度も述べているが、出雲大社に関する研究は関係史料に関する徹底的史料批判なしには成り立たないが、これまで『大社町史』に代表される中世史の文献研究者や建築史の研究者はその前提条件を欠いたまま大社について論じており、すべての先入観をリセットして論じ直す責務がある。

 

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