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2019年9月16日 (月)

坊門院範子と光隆の関係

系図では母が誰かは記されていても母方の祖母(母の母)については情報がない。ケースバイケースで判断するしかない。藤原宗兼の子については宗長外二名のみ、日野有信の娘が母であると記され、池禅尼と問題の宗親については記載がない。有信娘以外の宗兼の妻は知られていない。とりあえず、嫡子宗長の姉であろう禅尼は同母の可能性が高く、宗親の母は不明としておく。
 範子の母小督についても父が信西の子成範であることのみ確認でき、母は不明である。そうした中で範子と光隆との間に関係があることを前提に考えると、成範の妻(小督の母かどうかは情報がない)が藤原為通の娘であることが注目される。為通の妻で嫡子泰通の母である女性は源師頼の娘であるが、光隆の妻にも師頼の娘がいる(その間の子については不明)。
 為通の嫡子泰通(頼朝ど同年=1147生)は父為通(1112-54)の死亡時に八才であったため、為通の叔父成通(1097-1162)の猶子となった。成範(頼朝より一二才年長=1135生)の妻についても同様に成通の猶子となったのではないか。小督が頼朝より一〇才年少(1157生)であることを考えると、小督の母は泰通の姉であろう。
 女性の情報が限られるため、推測に推測を重ねた形となるが、光隆と範子の関係をつなぐのは、光隆の妻の一人(師頼娘)と小督の祖母(師頼の娘)が姉妹であったことではないか。表現を変えると、小督の母が光隆妻の姪であったことである。光隆の嫡子雅隆の母は成通の兄(為通の伯父)である信通の娘である。
 為通は崇德天皇の寵臣であり、父伊通が自分以外の参議四名が同時に権中納言に昇進したことに納得できず、一時籠居したことで官職を止められたが、為通→崇德→鳥羽という働きかけにより、三年後に参議に復帰して間もなく権中納言に昇進できた(『水鏡』)。為通は待賢門院流であり、泰通の長子経通は隆季(家成嫡子)の娘を妻とし、次子国通は、夫平賀朝雅を失った時政娘(母牧の方)と再婚している。さらに、泰通の娘は滋野井実宣(公時と吉田経房の娘の間に生まれた)の妻となっているが、実宣もまた時政と牧の方の間に産まれた娘を妻としていた。時政は娘婿である平賀朝雅の変(1205)で失脚しているが、実宣は時政の娘婿となった効果で参議であった父公時を超えて権大納言に昇進している。繰り返しになるが、牧の方の父が池禅尼の兄弟宗親であることは全く必要ないのである。

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