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2019年9月29日 (日)

金輪造営図と神郷図3

 これに対して、高貞討伐後の同四年(一三四一)六月九日には沙弥(佐草)禅光が起請文を提出している。禅光は孝時から清孝への譲状の執筆者であったとされる。東三郎殿に相論が出来したことに対して、東殿へ忠をいたし、不忠は以前・以後ともに無いとして、御内を出るような事態となっても、この旨を翻すことはないことを誓っている。問題は東三郎とは誰を指し、相論相手が誰かということである。以前の論文で述べたように東三郎とは国造三郎清孝で、相論相手は孝景であろう。禅光は孝時譲状の内容に従うとしている。現実的に孝景の主張が実現する可能性は低かった。
 一方、孝景は建武年間の領家雑掌と国造孝時の裁判のため、国造側の主張を裏付ける文書を持って上京したことがあった。裁判には賄賂を含め多額の費用がかかるため、文書を質入れしたのであろう。当然、清孝から文書を早急に回復せよとの要求が孝景に出されていたが、実現していなかった。そうした中、神主兼国造清孝の職務を代行していた孝宗は、兄に自らを後継者とする譲状の作成を求めるとともに、相続の支證となる泰孝と孝時の譲状等を入手しようとした。康永二年(一三四三)三月一六日付の孝景の文書はそうした中で作成されたものである。これにより、裁判のため京都に持っていった文書が判明する。その内の一通は和与状とされており、まさに相論を提起した孝景が和与に応じる中で作成されたものである。問題は清孝がいつまで生存していたかであるが、三月一五日には雲樹寺の孤峰覚明が清孝に菩薩戒と袈裟を授けており、翌一六日の時点でも生存していたと思われる。二八日には清孝が国造・神主職と所領を孝宗に譲っている。これについて千家方は臨終に際して孝宗に譲ったとしており、この後、期間を置かずに死亡したことは確実である。
 問題となるのは五月一六日付の妙善書状と「康永二」と付記された三月三日守護奉行人注進状である。前者については後の裁判で、「孝宗が母妙善自筆であると主張したが、貞孝方はそのような書状は知らないと述べた」との幕府奉行人の裏封が記されている。後の裁判で北島方は何度も孝宗が国造後継の火継の儀式を行っていないと批判しており、それに対抗するため後日作成されたものであろう。ただし、その中で「こきよのり」とあるのは、清孝がこの時点で死亡していたことを示している。康永二年に比定できる五月一三日沙弥浄覚書状でも「清孝存する日より孝宗が代官であり、相続したことは承知している」と記されており、清孝の死亡が確認できる。これにより、康永二年六月八日国造清孝所領配分状(千家文書)が後に作成された偽文書であることは明白である。後者の奉行人注進状は清孝譲状の前となり、「康永二」との追記は誤りである。康永三年二月九日某書状は舎弟時孝に伯父孝時から譲られた所領を譲ったことを「杵築東三郎」に伝えている。某は書状中にみえる「高よし」で時孝とともに孝景の子である。宛名の東三郎は清孝の死により東家を継承した人物であろう。

 

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