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2019年9月19日 (木)

出雲大社領の寄進時期1

 出雲大社領には正殿遷宮時に国司から寄進された所領と、それ以外の所領があり、後者は年貢納入が神主ではなく別納の扱いとなっている。その区分を示すのが、建暦三年(一二一三)に比定されている領家藤原雅隆袖判御教書である。そこでは神主(中原孝高であろう)に対して、大社領郷々浦々の知行が安堵されているが、その内、出西郷・同(出西)富、高墓(濱ヵ)、石墓(塚ヵ)と稲岡郷は別納の地であるとしている。ここに見えない国司寄進の所領=遙堪社・遙堪河手郷、鳥屋村・武志村、大田郷とともに知行せよとしている。後者が大社政所と神主の直轄であるのに対して、前者は本来の開発領主が年貢納入を請け負っているのであろう。
 この内、出西郷については建武三年孝時申状土代では孝時先祖開発の私領であるとされ、建久五年(一一九四)三月二一日出雲孝房譲状(年記より後に作成されたもの)にも孝房親父国造宗孝の時に神領に申し寄せたとする。富も同様であろう。高墓、石墓、稲岡郷については具体的情報がないが、康元元年(一二五六)一二月 日大社領注進状にみえるにもかかわらず、文永八年(一二七一)一一月 日頭役結番帳中の杵築社領にはみえない。
 すなわち、そこには国司寄進の遙堪郷、武志郷、鳥屋郷、大田郷、別納の出西郷、さらには鎌倉幕府が寄進したとされる伊志見郷がみえるのみである。一方、康元元年注進状には大田郷はみえず、注進状にみえる高浜郷、稲岡郷、千家村、北島村、石塚村は頭役結番帳にはみえない。頭役結番帳には杵築社領のすべてが載せられているという前提に立てば、高浜郷と稲岡郷は遙堪郷に含まれており、千家村、北島村、石塚村は結番帳では大田郷と表記されているのだろう。
 承久の乱後の安貞二年(一二二八)八月二五日に寄進された意宇郡伊志見郷については、寄進者が鎌倉幕府である点と、他の寄進時期が正殿遷宮終了直後であるのに対して、仮殿遷宮の翌年という点が異なっている。

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