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2019年9月29日 (日)

金輪造営図と神郷図2

 以上の状況から、泰孝は孝時を後継者としたが、一方では、孝時の後継者は孝時の子と孝景(福得丸)の子から選ぶとし、その決定権を後家となる覚日に託した。ただし、成人後の孝景は自らが後継することを望んでいた。そうした中、孝時の死期が迫り、後継者の決定が必要となった。孝時は当初子である三郎清孝を後継者と考えていたが、病弱などの問題があり、弟六郎貞孝に変更しようとした。ここでも貞孝は元服前の「あかこまろ」であるという問題があったため、後家覚日の意向も踏まえて、一期分として清孝の相続を認めた。覚日は実子孝景の意向を知っていたが、混乱回避のため現実的選択を行った。「あかこまろ」も元服直前であり、孝時譲状も微妙な内塔となった。
 これをうけて覚日の甥である出雲守護高貞が、覚日からの書状を副えて建武三年六月五日付で清孝宛に後継を安堵する文書を出しているが、直状ではなく、覚日の意向を受けた奉書の形式をとっている。次いで、高貞は自らの家臣日野氏と富田氏に大社領を清孝に打ち渡し、孝景以下の輩が不満を示したら、名簿とともに状況を報告するよう命じている。不満のある孝景も母覚日と従兄弟である高貞の意向が示されたため、抵抗できなかったと思われる。
 建武三年七月 日軍忠状(千家文書)には「舎弟六郎貞教(孝)」とみえ、「あかこまろ」が元服したことが確認できる。出雲国造と舎弟六郎貞孝の間に判読困難な一字があり。「同ヵ」と注記されることが多いが、「并」であろう。これが千家文書として残っているのを不審に思う人があるかもしてれないが、あくまでも軍忠を行った主体は国造清孝であった。
 清孝には健康上の問題があり、国造・神主の実務を弟である五郎孝宗に代行させていた。これが国造家分立の原因の一つとなる。その背景として国造清孝と後継が決まっていた貞孝並びに後家覚日が同居していなかったことがあろう。出雲大社は本殿を中心とする境内と境内に隣接する空間に分かれている。祭祀を担当する国造館は境内の本殿と背後の八雲山の間にあり、出雲大社全体を統括する神主館は境内西隣(境外)の政所内にあったと思われる。寛文の造営以前の北島国造館は国造館を継承したものであり、千家国造館は政所内の神主館を継承したものである。このような体制は廃嫡を免れた清孝の時代に遡るものであろう。孝宗が代行とされた時期を示す史料は残っていないが、清孝が死亡する康永二年からさほど遡らない時期であろう。
 国造家の分立の直接の契機となったのは、暦応四年三月後半から四月にかけての出雲守護塩冶高貞の討伐である。この一年前の暦応三年四月二〇日付で千家五郎宛に出された清孝書状が注目される。『大社町史』の綱文では清孝が稲岡郷内の所領を大方殿(覚日)に与えたことを五郎に伝えるとしているが、これでは何のことか理解できない。正しくは、大方殿の所領の一部を五郎に進めたことを伝えたものである。健康面に不安がある清孝から貞孝への代替わりが近づいたための措置で、この時点では庶子としての千家孝宗の位置に変わりはなかった。後家覚日は孝宗の立場にも配慮していた。翌四年正月二八日に清孝が遙堪郷を神官に給分として与えているのも同様の措置である。

 

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