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2019年9月15日 (日)

本朝通鑑と国造家2

 『吾妻鏡』文治二年五月三日条には、国造則(孝)房が総(惣)検校職(神主職、以下では惣検校を使用)から更迭され、代わって同(出雲)資忠が補任されたことが記されている。2004年に論文「中世前期出雲大社史の再検討」(研究会での報告はしていない)を発表するまで、「同資忠」が無視され、『大社町史』や研究論文では「中原資忠」と記されていた。
 『通鑑』によれば、国造側は「同」を理解しており、資忠が他姓であるのに出雲姓と偽って惣検校職に補任されたが、国造以外の他姓の人物では遷宮時に御神体を奉懐できないことを主張し、遷宮直前に資忠から孝房に交代したと主張した。国造は出雲大社で神事を担当するポストで出雲宿祢一族から補任されてきた。ただし国造家=出雲宿祢ではなく、出雲宿祢一族は平安末期には出雲国衙在庁官人としては勝部宿祢に次ぐ勢力を持っていた。資忠が内蔵氏とも呼ばれたのは、出雲宿祢一族の中で、内蔵(公の大蔵に対して、出雲大社の神事に使用する祭器などを納めた蔵か)の管理を行っていたためであろう。
 遷宮直前に惣検校が交替したのは事実であるが、そこに至るまでの造営を行ったのは内蔵資忠であったし、遷宮が終わると、領家は再び惣検校に資忠を補任している。惣検校は現地における出雲大社の管理権を有し、国造もその管理下にあるが、国造が惣検校に補任されることもあった。基本的には一年契約で、請文(年貢納入の条件等を記す)提出者から領家が選んで補任した。とはいえ、短期間で交替するのは管理面で問題があり、特別な場合である。通常の交替の場合、前年の秋(七月~九月)に補任し、次年度春からの業務に支障がないようにした。

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