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2019年9月

2019年9月30日 (月)

今年度も折り返し2

 上野三段は女流棋士初の男女参加棋戦での優勝を逃したが、ライバル藤沢四段が、来季名人戦リーグ入りをかけた最終予選に進出している。九月二三日には一回戦で志田達也八段(間もなく開幕する七五期本因坊リーグ入り)に勝利した。残り二戦であるが、他の三人のうち、二人は中堅棋士であるが、残る一人は上野三段を破った一力八段である。他の二組の勝ち残りメンバーをみても、一力八段が最強であり、もっとも高い壁である。確か一力八段は名人戦リーグ入りはまだないはずである。昨年の棋聖戦Sリーグでタイトル獲得経験のあるベテランに敗れ二勝三敗で陥落したが、今年のAリーグは七戦全勝で、来季はSリーグ復帰が決まっている。本因坊リーグも昨年四勝三敗ながら前期の順位により陥落。今年は最終予選を突破し、リーグ復帰を決めている。名人戦リーグ入りとなれば、三大棋戦すべてでリーグ入りとなる。二年前には棋聖戦Sリーグ全勝で、その後の挑戦者決定トーナメントに勝利して井山棋聖に挑戦したが、四連敗で敗れている。大学生活も今年で終わり、来年からは囲碁ににかける時間も増える。本人としても飛躍して七大タイトル獲得、国際戦での活躍を期しているであろう。一力八段と芝野八段、藤沢四段はいずれも洪道場の出身である。藤沢四段の父が主宰する囲碁教室出身者では木本八段が本因坊戦挑戦経験があり、若手の注目棋士も多いが、特に少年少女の世界棋戦での唯一の優勝経験がある関航太郎二段一五才(2013年大会)が注目であろうか。準優勝経験者が一力八段(2008年大会)と、島根県江津市出身で一四才で関西棋院初段となった長谷川広六段(1991年大会)であるが、長谷川六段は二一才であった一七年前の京都市の自宅の火災で死亡した(自殺か失火かは不明)。もうひとり菊川幹敏(1986年大会)さんがいるが、プロにはならなかったようである。芝野虎丸八段は青年組で準優勝(2013年大会)しているし、中国の柯潔九段は両方の優勝者(2008年少年、2011年青年)である。
 ちなみに、藤沢四段が二一歳、一力八段が二二歳で、ともに二〇一〇年入段である。藤沢四段は女流棋士特別枠採用で、一一才六ヶ月は史上最年少。男女参加の昇段試験での最年少は趙九段の一一才九ヶ月。謝依旻六段が女性棋士の正規枠採用最年少(一四才四ヶ月)。
 今後は論文集作成に重点を置き、ブログ記事アップは何か大切な問題がある場合に限定したい。

 

今年度も折り返し1

 国政を私物化する無能な政治家。誰を連想するだろうか。北朝鮮・日本・アメリカの首脳の三馬鹿トリオであり、ここに現在の日本の最大の不幸(真面目に生活している人限定か)がある。後世の評価は三者とも「大本営発表・戦犯政権」となるだろう。日本はその取り巻き連中も最悪である。以前はASKと命名したが、現在はさらに増殖している。
 当座の数字上の経済成長率を高めるには、富裕層の負担を減らし、その消費を刺激するのが最もてっとりばやい。現在の日本の経済政策は、自分の支持率確保のために行っているので、そのようになっている。この政策は将来の経済的資源と人的資源の枯渇をもたらす。高度成長期には富裕層と企業の利益は投資に回って技術革新をもたらしたが、現在は生産向上にはつながっていない。これからは、分配の観点から経済政策を評価しなければいけない。日本の最低賃金の低さは国際的にみても異常なレベルだが、かといって、それを引き上げるためには、関連する施策がなければ、中小企業の倒産を増やすのみとなる。それとともに、見せかけの成長率に変わる指標を確立する必要がある。
 ラグビーW坏の日本・アイルランド戦は想定の範囲内の結果であったが、もう一度やればまた別の結果となる。最近のテストマッチは勝敗が安定せず、どこが強いのか分からない。仮に日本がA組一位通過すると、準々決勝は南アフリカとなるが、これも九月とは全く別の試合となるだろう。わからないといえば、台風であり、現在、一〇月二日に福岡で行われる試合について、中止となることがあると、対戦国に連絡されたそうだが、その後の台風も予想困難である。過去のデータを見ると、一〇月末にも台風が接近した例がある。文永の役(一二七四)は太陽暦では一一月半ばから末にかけての事件である。台風であったかはともかく強い風雨で元・高麗軍が大打撃を受けて撤退している。いわずもがな、「神風」が吹いたのではなく、日本の船にも大きな被害を与えた。
 囲碁では一九歳の名人誕生が目前となってきた。昨年の井山名人は不調であったがために、ここから逆転されたが、今年はその再現の可能性は低い。一方、将棋では四六歳の王位が誕生した。囲碁でも挑戦手合まではゆくがなかなか勝てなかった棋士はいるが、さすがに四六歳で初獲得はいない(調べると、羽根泰正九段が四六才で初タイトル、子直樹=ヒカルの碁で塔矢アキラのモデルとも、孫彩夏と三代棋士)。木村王位の今年度の成績は強敵が多いこともあり、六割に届いていない。内容がわからないので、根拠はないが、豊島名人は昨年の名人戦リーグでも中盤まで好調だったのが、終盤に乱れて挑戦権を逃しており、好不調が短期間で変わっているようだ。現在最も好調な渡辺三冠は17勝4敗と勝率が八割を超えている。豊島名人以外には全勝だが、対名人は三勝四敗と負け越している。現在はこの二人が頂点にあるが、豊島名人は当初は渡辺戦の三敗のみであったが、七月二五日に永瀬七段に王座戦挑戦者決定戦に敗れてからは九勝八敗で、内五敗が王位戦挑戦手合いと竜王戦挑戦者決定戦で木村王位に敗北したものである。両者の一〇連戦は五勝五敗で終わった。

 

2019年9月29日 (日)

金輪造営図と神郷図5

 何を意味するかというと、造営関係史料として千家国造が所持する「金輪造営図」がよく知られているが、これは本来の差図ではなく、差図が現在もあるとすれば北島国造家にあるということである。「金輪造営図」は過去の出雲大社の情報を保持するという目的に加えて、正統性を証明する史料の保有で北島家に対して劣勢である千家方が、別の情報を加えて作成したものである。作成時期は室町後期としておけば外れることはないであろう。そして同時期に作成されたのが、一三世紀後半から一四世紀初めに作成されたというのが通説となっている「出雲大社并神郷図」である。国造館と政所についてはすでに述べた通りだが、この図には政所が大変強調されて描かれている一方で、本来の国造館は消されている。丁度、現在、出雲大社のHPに記されている図と同じである。そこには北島国造館は無視されている。図がそれ以外の部分でどの程度事実を反映しているかは、不明としかいいようがないが、ここに描かれている大社本殿はその高さを推定する材料にはなりえないことだけは確かである。この図が国造家の分立前に作成されたものであるならば、それに関する情報は北島家にも当然なければならない。
 なお造営関係史料は千家文書にも含まれているが、これは本来、政所文書であったものである。また、国造家が神主を独占するようになると、国造家文書と政所文書の区別はあいまいになる。文永七年(一二七〇)正月に大社本殿が焼失するまでの三五年間は国造家が神主を独占し、その後も出雲真高・実政父子が神主となったが、いずれも短期間であった。神主となった実政の父真高が造営旧記を見ることができなかったことがそれを示している。造営旧記が国造家文書となり、神主であっても見ることができなかったのである。その後の領家との裁判の支證の中心として京都に持って行ったものと、孝時と覚日からの譲状等が北島文書となった。元暦元年一〇月二八日頼朝袖判下文が北島国造家に残っているのに対して、その家臣が発給者となった同年一一月二九日、文治二年正月 日、文治二年二月九日の平某下文は千家国造家に残っている。
 何度も述べているが、出雲大社に関する研究は関係史料に関する徹底的史料批判なしには成り立たないが、これまで『大社町史』に代表される中世史の文献研究者や建築史の研究者はその前提条件を欠いたまま大社について論じており、すべての先入観をリセットして論じ直す責務がある。

 

金輪造営図と神郷図4

 国造職は世襲であり、その死をもって譲状が執行され新たな国造が相続する。清孝の死により父孝時譲状に基づき国造を相続した貞孝に対して、孝宗が清孝から譲られた事を根拠に交替を拒否したことで孝宗と貞孝の相論が始まった。康永三年六月一五日守護代吉田厳覚書状には、去年の三月会以下の神事が兄弟の相論により実行できない状況であり、当座の和与を結ばせたとして、守護側近隠岐彦左衛門尉にどちらを国造兼神主とするが決定すべきかと上申している。三月会は清孝の病状悪化により延期されていたが、その死後すぐに両派の対立が生じて、実行不能となったでのである。
 康永二年三月一六日出雲孝景和与文書目録には泰孝から孝時への譲状の正本(原本)は焼失したと聞いたが、孝宗から与えられた案文に任せて、作成し進めたと記されている。ところが、千家文書に残る徳治二年一二月五日出雲泰孝譲状写には、逆に、それ=孝景から得た案文に任せて書いたことと、正文が焼けた事も聞いたとを記した上で、後日のために裏封をすると、記されている。その上で康永二年三月一六日に孝宗が署判を加えている。このような細工が千家方により施されていることにも注意しなければならない。
 実際には裁判関係文書は孝宗ではなく貞孝に渡され、今日に到るまで北島家文書として保存されている。千家方の孝景と結んでの工作は失敗したのである。裁判関係文書には泰孝譲状が含まれていたが、孝時譲状はリストにみえない。孝時が一方の当事者である裁判であったため、支證には含まれなかった。孝時から後継者とされた貞孝に、泰孝譲状並びに造営旧記などが返されたのは当然のことであった。その意味で、応安三年の大社神官等申状の記載内容は検討なしには使えないものである。その貞孝がいた場所が国造館であった。後に両国造家で論争が行われており、千家方は神郷図を根拠として政所内の千家国造館が本来の国造館であると主張しているが、北島方の主張が正しい。
 以上までで、現在の北島家文書がどのような形で伝えられたかを確認した。注目されるのは孝景の和与関係文書に「造営旧記」とならんで「差図」がみえることである。文書目録には「治暦・永久造営旧記」はあっても、正文は知らないと注記されている。質入れ文書目録には1)領家との過去の裁判に関する関東下知状、御教書、領家三条殿御教書、国造が幕府へ送った巻数への返事と並んで、2)義孝と泰孝が幕府から得た大庭田尻保の安堵状、国富・氷室綸旨とともに差図と宝治造営旧記が記されている。1)裁判での勝訴判決や領家からの補任などであるが現在は残っていない。残したくない情報が含まれていたためであろう。2)は差図を除けば北島国造が所有していることが確認できる。

 

金輪造営図と神郷図3

 これに対して、高貞討伐後の同四年(一三四一)六月九日には沙弥(佐草)禅光が起請文を提出している。禅光は孝時から清孝への譲状の執筆者であったとされる。東三郎殿に相論が出来したことに対して、東殿へ忠をいたし、不忠は以前・以後ともに無いとして、御内を出るような事態となっても、この旨を翻すことはないことを誓っている。問題は東三郎とは誰を指し、相論相手が誰かということである。以前の論文で述べたように東三郎とは国造三郎清孝で、相論相手は孝景であろう。禅光は孝時譲状の内容に従うとしている。現実的に孝景の主張が実現する可能性は低かった。
 一方、孝景は建武年間の領家雑掌と国造孝時の裁判のため、国造側の主張を裏付ける文書を持って上京したことがあった。裁判には賄賂を含め多額の費用がかかるため、文書を質入れしたのであろう。当然、清孝から文書を早急に回復せよとの要求が孝景に出されていたが、実現していなかった。そうした中、神主兼国造清孝の職務を代行していた孝宗は、兄に自らを後継者とする譲状の作成を求めるとともに、相続の支證となる泰孝と孝時の譲状等を入手しようとした。康永二年(一三四三)三月一六日付の孝景の文書はそうした中で作成されたものである。これにより、裁判のため京都に持っていった文書が判明する。その内の一通は和与状とされており、まさに相論を提起した孝景が和与に応じる中で作成されたものである。問題は清孝がいつまで生存していたかであるが、三月一五日には雲樹寺の孤峰覚明が清孝に菩薩戒と袈裟を授けており、翌一六日の時点でも生存していたと思われる。二八日には清孝が国造・神主職と所領を孝宗に譲っている。これについて千家方は臨終に際して孝宗に譲ったとしており、この後、期間を置かずに死亡したことは確実である。
 問題となるのは五月一六日付の妙善書状と「康永二」と付記された三月三日守護奉行人注進状である。前者については後の裁判で、「孝宗が母妙善自筆であると主張したが、貞孝方はそのような書状は知らないと述べた」との幕府奉行人の裏封が記されている。後の裁判で北島方は何度も孝宗が国造後継の火継の儀式を行っていないと批判しており、それに対抗するため後日作成されたものであろう。ただし、その中で「こきよのり」とあるのは、清孝がこの時点で死亡していたことを示している。康永二年に比定できる五月一三日沙弥浄覚書状でも「清孝存する日より孝宗が代官であり、相続したことは承知している」と記されており、清孝の死亡が確認できる。これにより、康永二年六月八日国造清孝所領配分状(千家文書)が後に作成された偽文書であることは明白である。後者の奉行人注進状は清孝譲状の前となり、「康永二」との追記は誤りである。康永三年二月九日某書状は舎弟時孝に伯父孝時から譲られた所領を譲ったことを「杵築東三郎」に伝えている。某は書状中にみえる「高よし」で時孝とともに孝景の子である。宛名の東三郎は清孝の死により東家を継承した人物であろう。

 

金輪造営図と神郷図2

 以上の状況から、泰孝は孝時を後継者としたが、一方では、孝時の後継者は孝時の子と孝景(福得丸)の子から選ぶとし、その決定権を後家となる覚日に託した。ただし、成人後の孝景は自らが後継することを望んでいた。そうした中、孝時の死期が迫り、後継者の決定が必要となった。孝時は当初子である三郎清孝を後継者と考えていたが、病弱などの問題があり、弟六郎貞孝に変更しようとした。ここでも貞孝は元服前の「あかこまろ」であるという問題があったため、後家覚日の意向も踏まえて、一期分として清孝の相続を認めた。覚日は実子孝景の意向を知っていたが、混乱回避のため現実的選択を行った。「あかこまろ」も元服直前であり、孝時譲状も微妙な内塔となった。
 これをうけて覚日の甥である出雲守護高貞が、覚日からの書状を副えて建武三年六月五日付で清孝宛に後継を安堵する文書を出しているが、直状ではなく、覚日の意向を受けた奉書の形式をとっている。次いで、高貞は自らの家臣日野氏と富田氏に大社領を清孝に打ち渡し、孝景以下の輩が不満を示したら、名簿とともに状況を報告するよう命じている。不満のある孝景も母覚日と従兄弟である高貞の意向が示されたため、抵抗できなかったと思われる。
 建武三年七月 日軍忠状(千家文書)には「舎弟六郎貞教(孝)」とみえ、「あかこまろ」が元服したことが確認できる。出雲国造と舎弟六郎貞孝の間に判読困難な一字があり。「同ヵ」と注記されることが多いが、「并」であろう。これが千家文書として残っているのを不審に思う人があるかもしてれないが、あくまでも軍忠を行った主体は国造清孝であった。
 清孝には健康上の問題があり、国造・神主の実務を弟である五郎孝宗に代行させていた。これが国造家分立の原因の一つとなる。その背景として国造清孝と後継が決まっていた貞孝並びに後家覚日が同居していなかったことがあろう。出雲大社は本殿を中心とする境内と境内に隣接する空間に分かれている。祭祀を担当する国造館は境内の本殿と背後の八雲山の間にあり、出雲大社全体を統括する神主館は境内西隣(境外)の政所内にあったと思われる。寛文の造営以前の北島国造館は国造館を継承したものであり、千家国造館は政所内の神主館を継承したものである。このような体制は廃嫡を免れた清孝の時代に遡るものであろう。孝宗が代行とされた時期を示す史料は残っていないが、清孝が死亡する康永二年からさほど遡らない時期であろう。
 国造家の分立の直接の契機となったのは、暦応四年三月後半から四月にかけての出雲守護塩冶高貞の討伐である。この一年前の暦応三年四月二〇日付で千家五郎宛に出された清孝書状が注目される。『大社町史』の綱文では清孝が稲岡郷内の所領を大方殿(覚日)に与えたことを五郎に伝えるとしているが、これでは何のことか理解できない。正しくは、大方殿の所領の一部を五郎に進めたことを伝えたものである。健康面に不安がある清孝から貞孝への代替わりが近づいたための措置で、この時点では庶子としての千家孝宗の位置に変わりはなかった。後家覚日は孝宗の立場にも配慮していた。翌四年正月二八日に清孝が遙堪郷を神官に給分として与えているのも同様の措置である。

 

金輪造営図と神郷図1

 現在の出雲大社国造家文書は千家文書と北島家文書に分かれている。出雲大社文書と呼ばれるものは、両国造家から寄進されたものである。一方、国造家文書とは別に出雲大社政所文書というべきものがあった。政所は大社領の管理や神事の執行を行い、その責任者である神主は領家が補任し、国造以外の人物が神主となることは、一三世紀末までは珍しいことではなかった。
 政所文書は出雲大社領が寄進・立券されて以降の文書であるが、それ以前は出雲国衙の中に政所に相当する機関があり、在庁官人がその支配に当たっていた。国造はあくまでも一宮である出雲大社の祭祀を担当する職であった。国造家とは出雲宿祢家の中で出雲大社の祭祀にあたる家であるが、父子間の直系相続とは限らず、兄弟間の相続や、出雲宿祢一族の別の家が新たな国造家となることもあった。その過程では激しい相続争いがあった。
 一四世紀半ばに両国造家が分立したことにより、千家文書と北島家文書に分かれたが、国造兼神主は両家が月番で務めたため、政所文書は両属というべき状態にあった。これが明治六年に政府の命令で千家国造家に一本化されたため、政所文書は千家文書に吸収されてしまった。よって、中世の出雲大社を分析する際には、それが政所文書であるか、国造家文書であるかを区別した上で作業を行わなければならない。表題の二資料はいずれも千家国造家に伝わったものであるが、その作成時期は中世前期ではなく、室町後期であることを論証するため、その前提となる点から一つ一つ再確認したい。そのためには国造家の分立の実際がどうであったかを避けて通れないため、まずはその点から始める。
 応安三年(一三七〇)八月二八日大社神官等連署申状(千家文書)には、「貞孝が得たと号している文書は、国造と大社領家の裁判のため京都に持って行かれたものだが、孝景が抑留したため、清孝に返すよう幕府御教書が出された。ところが孝景が質入れしたため、請渡しを求め、孝景が自筆の文書目録等を清孝提出しながら、実際には貞孝方に渡してしまった。その後孝景が死亡したため、孝宗が孝景子息時孝宛の御教書を出してもらい沙汰してきた。」と述べている。
 以上の内容は、裁判の申状の常で、当事者の一方の主張にすぎず、個々について検討が必要である。上記の文書の背景には国造家の分立があったが、それは国造泰孝が譲状を作成した時点からの問題であった。泰孝の後継者として孝時と福得丸がいたのである。現在の国造家系図では、孝時、福得丸のいずれも泰孝室覚日の子であるように記されているが、実際は、泰孝がその晩年に出雲守護塩冶頼泰の娘を室に迎え、生まれたのが福得丸であった。国造系図では覚日を貞清の娘とするが、年代的に無理がある。出雲守護佐々木泰清と国造義孝、その子の頼泰と泰孝が同世代であった。泰孝には後継者はいたが、年の離れた頼泰の娘を新たな室として迎え、生まれたのが福得丸であった。泰孝の「泰」は守護泰清にちなむものであろう。晩年の子を寵愛するのは世の常であるが、福得丸には国造を継承できる成人年齢に達していないという問題があった。泰孝が福得丸が元服するまで健在なら問題はなかったが、譲状と置文を作成したのはその死期が迫っていたからである。

 

2019年9月27日 (金)

牧の方の娘の結婚相手

 国会図書館に複写を依頼していた『明月記研究』収録論文が届いたので、一部補足したい。題名で選んだので、自分が思ったのとは全く違う内容のものもあった。
 五味文彦氏「縁に見る朝幕関係-『明月記』と『吾妻鏡』の間-」(第五号)については、Googleブックで検索をして、その記載内容を伺うことができたが、一部であり、正確を期して複写した。牧の方と北条時政の娘で平賀朝雅の室となっていた女性が、元久二年閏七月二六日朝雅が討たれて間もなく滋野井実宣と結婚している。それに先立ち時政も伊豆に幽閉されたが、死亡したのは一〇年後の建保三年(一二一五)正月六日で、七八歳であった。一方、牧の方は幽閉されることなく上京し京都で生活するが、その後も時に鎌倉に下ることもあったとされる。
 これまで度々問題点を指摘してきた杉橋隆夫氏「牧の方の出身と政治的位置-池禅尼と頼朝と-」でも、時政死亡の一二年後の安貞元年に、牧の方が娘の再婚相手藤原国通宅で、時政の一三年忌の御堂供養を行い、次いで子孫の女房を連れて天王寺と南都七大寺参詣に出かけたことが紹介され(『明月記』)、将軍廃立を企て、おそらくは関東を追われた身でありながら、いかにしてかかる地位を保ちえたのか、そのあたりの事情を牧の方の出自にまでさかのぼって検討している。ただし、杉橋氏がその事情とした牧の方の父宗親が、池禅尼の弟である点はまったく証明されず、確認できるのはそれを明確に否定する点ばかりである。牧氏が平頼盛に仕え、京都とのかかわりがあったことは間違いないが、池禅尼の弟宗親と牧の方の父宗親は別人である。
 五味氏の論文では、藤原泰通の次男国通が同年齢の異母兄経通が、承元二年(一二〇八)に蔵人頭となったが、順徳の即位により止められ、後鳥羽院への訴えにより、建暦元年(一二一一)にやっと復任するという出世状況をみて、このままでは自分が蔵人頭に補任されるのは難しいとして、時政娘との結婚を考え、建保二年(一二一四)正月に兄が参議に昇進した跡の蔵人頭に補任されたとする。この時点で国通は三九歳であり、時政娘も同世代と思われる。国通の前に時政の別の娘を室としていた滋野井公時の次男実宣(年齢は国通の一才下)が蔵人頭に補任されたのは建永二年(一二〇七)二月であり、これ以前に時政娘と結婚していたことになる。国通の結婚時期も、兄の蔵人頭補任後まもない時期であったと思われる。
 実宣と国通が時政娘と結婚したのは牧の方の出自とは無関係で、幕政を主導する北条氏との関係を結ぶためであった。北条氏側にもメリットがあった。それだけではなく、誰もかれもが北条氏との婚姻を結べたわけではなく、実宣、国通ともに頼朝もその構成員である待賢門院・崇德院流に属していたことがその背景にあった。

 

2019年9月24日 (火)

尚々書の解釈

 永禄六年三月二三日津森幸俊書状(富家文書)には本文とともに尚々書が加えられている。本文では本庄之儀について富氏から連絡を受け、尼子氏に披露したことと、隠新の雑意は必定で、村民・足若とともに討ち果たしたとする。次いで、その他の家来中は隠豊が掌握していることを述べている。本庄の儀が隠新の雑意であることは明白で、長海庄を支配していた隠岐氏の一族の中に毛利方に現形するものがあったが、具体的行動に出る前に鎮圧されたことになる。長海庄は本庄と新庄に分かれており、隠新は隠豊のもとで本庄を支配していたのであろう。村民とは天文一三年九月一七日に隠岐豊前守(五郎右衛門尉)豊清が長海新庄内清安寺に所領を寄進した際に、合わせて出された隠岐氏家臣連署状の署判者として見える「村上民部左衛門尉幸歳」であり、足若も隠岐氏家臣であろう。隠新については署判者の三番目にみえる「隠岐右衛門尉清慶」を当主豊清と区別して使われた略称であろう。尚々書では上記の本文を補足して、朝山二郎左衛門方も本庄に同意したことがわかり、切腹させたことを伝えるとともに、富氏に感謝の意を示している。
 極めて、明解な文章であるにもかかららず、『富家文書 本文編』では不可解な解説が付けられている。すなわち、「本庄」が『塩冶旧記』に見られる塩冶八幡宮神主家である可能性もあると、最初に述べ、次いで隠岐氏の所領長海本庄を指す可能性もあって明らかではないとする。後者であることは一〇〇%断定できるにもかかわらず、根拠を示さずに、第一案として塩冶八幡宮神主本庄氏である可能性があるとするのである。永禄五年一二月には、尼子氏のもとを離脱して上洛していた佐陀神主朝山氏一族の日乗が大社関係者と毛利方の仲介を行っていることが分かり、尼子氏は朝山氏に警戒心を抱いていた中での情報提供であり、謀反が大きなダメージにならないように迅速に対応したのだろう。『富家文書 本文編』は文書を翻刻紹介する貴重な書物であるが、その他の解説文(斐伊川の流路に関する地図にも根拠がない)にも誤りが含まれ、残念ながら学術的レベルに届かない出版物と言わざるを得ない。出版から二二年が経過しているが、訂正版を出すのに遅すぎることなどない。

2019年9月23日 (月)

囲碁の話題から

 本日夜には、上野三段(一七歳、現役高校生)の女性棋士初めての優勝がかかった囲碁竜星戦の決勝がある。NHK坏と同様、普段はTV放映日まで結果は公表されないが、今回はそうもいかない。昨日放映のNHK坏では上野三段を抑えて女流トップの座にある藤沢四段が二回戦を戦ったが、関西棋院の若手のトップでタイトル挑戦経験のある余八段に敗れた。上野三段も初戦は勝利し、二回戦では張名人と当たるとになっている。
 決勝戦の相手の一力八段は、現在の囲碁トップ棋士では珍しい現役の大学四年生で、一方では囲碁に専念していたらとの声も常にある。最近でもアルファ碁と対戦した韓国の李世乭九段や柯潔九段に勝利したこともあるが、大学入学前の国際戦の成績は現在より良かった。国家試験合格後に研修医として勤務する直前(研修医となると勤務時間が長くて両立してきた囲碁ができなくなるとして)に二八歳で囲碁の棋士に転じた坂井秀至八段は、張九段を破って碁聖位を獲得したこともあったが、近年の若手の台頭の中で、棋戦を休場して医師に転身することとなった。父が産婦人科医であったため、医学部に進んだようだ。一力八段も、視野を広げたいとの本人の意向とともに、実家が仙台で新聞社を経営しており、できれば後継してほしいとの周囲の要望もあったようだ。一力八段と同年齢で小学校時代から対局し、中国のトップ棋士となった柯潔九段は国の推薦で今秋に清華大学経済学部工商管理専攻に入学することになった。精華大学は世界の大学ランキング二二位、アジアでは一位の難関大学である。日本では三六位の東大が最上位、京大が六五位で、世界のトップとされる二〇〇校に入っているのはこの二校のみ。
 話が横道にそれたが、一力八段は七大棋戦への挑戦者には何度もなったが、まだ獲得はない。ただし、早碁の棋戦である竜星戦は昨秋二度目の優勝をし、今春のNHK坏でも優勝しており、早碁ならば現在最強の棋士といってよい。囲碁のタイトル保持者や前保持者である高尾九段、村川八段、許八段を連破して決勝に進んだ上野三段の相手としては、最適な相手であることは間違いない。一力八段は藤沢四段と同様、韓国から来日して関西棋院の棋士となった洪氏の道場で学び、上野三段は藤沢四段の父藤沢一就八段の主宰する囲碁教室の出身である。現在の若手有望棋士の多くはこの道場・教室の出身者である。現在名人位に挑戦中で、王座戦の挑戦者にもなった芝野八段も洪道場の出身で、一七歳であった二〇一七年に竜星戦で優勝し、翌年行われた中国竜星戦の優勝者柯潔九段との対戦でも勝利を収めた。最年少棋士として注目される仲邑初段は父が囲碁棋士九段、母がインストラクターであったため、両親の指導で囲碁を学んで来た。大阪に住んでいたため関西棋院の院生となったが、より厳しい環境を求めて韓国に留学した。留学先の韓国道場の関係者はもう少し学んでから帰国したらよいとの意見であったが、父が所属する日本棋院からのオファーがあり、特別採用枠で初段となった。正規の採用試験で一力八段以来の一三歳で棋士となった福岡航大郎初段は洪道場で学び、韓国で修行したのちに日本棋院の院生となり、将棋の藤井七段と同様、ノンストップで昇級して初段となった。以前、サッカーのプロを目指す若者がブラジルに留学したのと同様であろう。これが中国となると実現が難しくなる。
   (追加)対局は劣勢であった上野三段が繰り出した勝負手が奏功し、一力八段の死ぬはずのない大石が死んでしまったが、最後に上野三段か誤り、白の大石が対局ではめったにみられない「欠け目生き」となって仕留めそこね、ギリギリのところで一力八段が勝利した。

ラグビーの話題から

 ラグビーW坏が始まったが。世界ランキングは日替わりで変わっている。二〇〇九年に返り咲いて以来、W坏二連勝もありダントツの一位であったNZが二〇一六年一一月に、テストマッチ新記録(一八連勝)がかかっていたアメリカ・シカゴでのアイルランド戦に敗北してから状況が変わってきた。会場をアイルランドのホームに移して行われた次戦はNZが勝利したが、初対戦から一一一年目、NZとのテストマッチ二九戦目にして勝利したアイルランドは、二〇一八年秋にもヨーロッパに遠征してきたNZを破っている。この年は六ヶ国対抗でも全勝優勝し、ベテランSOのセクストンがIRBの世界最優秀選手に選ばれた。前年と前々年はNZのSOバレットが連続して受賞していた。
 二試合とも映像をみていないので、どのようにしてアイルランドが勝利したかは不明だが、昨年のNZの欧州遠征はその他のテストマッチも勝利はしたが、僅差であった。同年の南半球四ヶ国対抗でもホームで南アに二点差で敗れ、最終戦のアウェーの試合でからくも二点差で逆転勝ちして優勝したが、今年は、初戦ではアルゼンチンに四点差で勝利したものの、南アと引き分け、オーストラリアにはアウェイではあったが二六対四七で歴史的大敗を喫し、三位に終わった(W坏の関係で今年は各一試合)。NZとオーストラリアには定期戦の勝者が保持するブレディスローカップがあり、その保持者を決める一週間後のホームの試合では三六対〇でNZが雪辱し、カップを保持した(例年は三戦だが、二戦の場合は一勝一敗なら防衛)。その試合でメンバー入替で起用された若手のジョージ・ブリッジとセブ・リースはW坏メンバーに選ばれ、初戦の南ア戦にも先発した。一方、若手ウィングで早くから代表キャップを重ねてきた日本生まれのリーコ・イオネアは、オーストラリア最終戦のメンバーからはずれ、W坏メーバーには残ったが、南ア戦はメンバー外であった。これまでのところは、成績不振によるメンバー見直しが功を奏しているようにみえる。直前のトンガ戦は九二対七の圧勝であった。そのトンガはW坏初戦のイングランド戦は三対三五で敗北した。
 最近の試合をみると、NZとオーストラリア戦と同様、一試合毎に状況が変化し、これがランキングの変動につながっている。W坏一月前にNZが一〇年振りに一位から陥落し、今年の六ヶ国対抗を全勝優勝したウェールズが、八月のイングランド二連戦の第二戦で雪辱して一位となったが、九月七日のアイルランド戦で敗北したため、アイルランドが一位となった。アイルランドは今年の六ヶ国対抗ではイングランドとウェールズに敗れ三位に終わっていた。最下位イタリアは全敗であったが、イングランドにこそ大敗したが、他の4試合は一〇点差程度の敗北であった。スコットランド対アイルランドも一三対二二であった。現時点ではNZの好調さが目立つが、決勝戦で南アと当たれば、どうころぶかわからない。チーム間の相性もある。フランスはW坏ではNZに強い。一九九九年大会(主会場ウェールズ)ではNZのHCジョン・ハートがフランスとの準決勝の前に、決勝に向けた練習日程を発表したほど自信満々であったが、三一対四三で敗北した。二〇〇七年英仏大会ではHCグレアム・ヘンリー率いるNZが予選を得失点差+274でダントツで通過したが、準々決勝では一八対二〇でフランスに逆転負けし、時間差で深夜であったNZ国内はまるで通夜のように沈んだとされる。その半年前にはNZに遠征してきたフランスに五〇点近い差で大勝していたにもかかわらず。
 ハートは一九九一年大会の監督となるはずの人物であったが、オークランド偏重を嫌う関係者の投票で敗れ、一九九五年大会も同様に選ばれなかったため、一旦実業界に転じていたが、二度の大会での敗北により、手のひらを返したように切り札として監督に迎えられ、軽量ではあるが運動量に優れたチーム作りを進め、大会直前までは向かうところ敵無しであった。ところが三ヶ国対抗最終戦オーストラリアとの試合で敗れ、一抹の不安が出ていた。二〇〇三年大会はHCも選手も世代交代したベビー・ブラックスで参加したが、準決勝でオーストラリアに敗退。そこで、外国チームのHC経験者はオールブラックスHCにはなれないとした規定を変更してHCに据えたのがヘンリーであった。ヘンリーは前述のように結果を出せなかったが、なぜか協会が続投させたため、当時のNo1指導者ロビー・ディーンズはオールブラックスHCとなれず、オーストラリアHCに転じた。この点については以前も述べたことがあるが、ヘンリーは一九九九年大会のHCになるべきであった。当時は無敵オークランドのHCであったが、NZ協会がハートを選んだため、ウェールズHCとなった。その敗北を受けて協会はクルセイダ-HCでヘンリー後のNo1コーチであったウェイン・スミス(現神戸製鋼HC)をHCとしたが、最初の二年で思ったような成果があがらないとして実績の無いミッチェルに交替させ、前述のベビー・ブラックスとなった。
 二〇一一年NZ大会では予選リーグでフランスに快勝し、その後も快進撃を続けたが、決勝で再び対戦したフランス戦は八対七の辛勝であった。二〇一五年イングランド大会では、準々決勝で六二対一三でフランスに快勝した。長々と述べたが、今大会はやってみないとわからない要素が大きい。本来、日本が相性が悪いのはNZと南アであり、北半球勢との試合は勝っても負けても接戦になる気もするが、わからない。W坏直前の南ア戦はさまざまな意味でテストが行われ、本番ではあのような差にはならないと思うが、準々決勝以降のトーナメントで再戦した場合どうなるかはわからない。

2019年9月22日 (日)

国造館と大社政所

 以前、①年未詳五月二日領家中納言僧都御房袖判出雲実政奉御教書と②一〇月二八日沙弥法願書状について、①は正安四年(一三〇二)のもので、②もそれ以降のものであることを述べた。②によれば、元実政で今は実孝を名乗る人物について、国造側から問い合わせがあり、それに回答するとともに支証として①の正文が進められたことがわかる。②では①について実政が預所職に補任され、細引・桑原田沙汰人中に命令を出したものだと説明されている。②の年代上の下限は亀山院の死亡(嘉元三年九月一五日)をうけて領家が交替する前なので、②は正安四年から嘉元二年(一三〇四)のものである。この後、松殿兼嗣が領家に復活し、そのもとでは以前に兼嗣に対して不忠のあった実政ではなく、その一族である孝覚(後に孝助と改名)が預所(雑掌)に補任された。この雑掌孝助が社領を押領したとして、国造側が幕府に訴えて延慶二年から裁判が始まった。
 問題は①が北島家文書、②が千家文書として保管されていることである。建武政権が崩壊後、雑掌孝助と国造孝時の間で裁判が再開され、支証として京都に持って行った①に対して、補助的文書である②は使用されなかったのだろう。その結果、①は造営旧記や泰孝譲状、孝時譲状とともに北島貞孝が保管し、②は大社政所に保管されていたのであろう。大社政所文書は明治以降、神主が千家国造に一本化されたことにより千家文書となった。
 千家国造家の所蔵する金輪造営図は、雑掌との裁判のため造営旧記とともに京都へ持って行った「差図」ではない。差図は北島家が所有しており、金輪造営図は後になって宝治二年までの本殿とその周辺の情報を残すために千家国造家で作成されたものであろう。千家国造家には「出雲大社并神郷絵図」も所蔵されている。この絵の美術的技法については判断する情報を持たないが、大社境内の西側に描かれた建物は大社政所であると考えるべきである。これが両国造家の分立後は、政所の一角が千家国造家の館を兼ねた。これに対して、絵図には明確に描かれていないが、境内の中に国造館があったはずである。国造館を描かないことから「絵図」の成立も金輪造営図に準じて考えるべきであろう。一四世紀半ばの国造清孝の時代に、雲樹寺の孤峰覚明に帰依して、雲樹寺を勧請してこれを神宮寺としたが、神宮寺は境内ではなくその東側に建立された。これが、戦国大名尼子経久により、境内の中に仏教的施設である三重塔、経蔵、鐘楼並びに覚明にちなむ三光堂が設置された。 

在庁官人出雲宿祢の没落

 承久の乱で在庁官人中勝部宿祢に次ぐ勢力を持っていた中原朝臣が没落し、杵築社神主であった孝高(頼辰の子)も姿を消すことはすでに述べた。わずかに生き残ったのは文永八年に津田郷地頭としてみえる秋鹿二郎女子である。当時の秋鹿郷地頭は土屋五郎忠泰なので、建久五年の郷司であった中原頼辰の関係者であろう。
 国造家は杵築社本家が土御門院で、領家藤原雅隆も承久の乱に関与しなかったため、影響は小さかったと思われる。内蔵孝元も幕府との密接な関係から、乱に加担したとは考えられない。ただし、孝元解任後国富郷地頭に補任された内蔵孝幸は乱で地頭職は没収されたようで、宝治元年の地頭は幕府評定衆にもなった大宰少弐狩野為佐であった。一方鰐淵寺は、経田・神田への濫妨をした国富郷地頭代官孝綱が三月会頭役を勤めるようなら、三月会の役を勤仕しないとして、大社神官らが孝綱の解任を求める解状を提出している。孝綱は孝幸ではなく、天福元年に一度は大社神主に補任された孝元の関係者であろう。内蔵氏が出雲宿祢一族であったことはすでに述べたとおりである。
 出雲宿祢一族は建久年間には庁事(序列五位一名)と大判官代(二名)を出し、藤原朝臣(序列四位の庁事と大判官代各一名)と並んで、勝部宿祢と中原朝臣に次ぐ勢力を有していたが、建長元年の注進状では、中原朝臣と同様、姿を消している。幕府の御家人となっていた国造家と内蔵氏の一部を除き、在庁官人出雲宿祢も没落したことになる。これは見方を変えれば、出雲宿祢一族や在庁官人の中で国造家と内蔵氏の占める位置が上昇したことになる。そして忌部総社神宮寺の記録には文永年中に内蔵孝元は守護により排除されたことが記されている。建治三年五月七日の沙弥(佐々木泰清)書状でも孝元について言及しており、記録の記事は実際の年次には疑問があるが、事実であったと思われる。これにより国造家の神主職をめぐるライバルは権検校から惣検校となった出雲実高・実政父子のみとなった。

2019年9月19日 (木)

出雲大社領の寄進時期2

 所領の寄進時期を記すのは建武三年出雲孝時申状土代のみであり、治暦三年二月一日遷宮の翌①治暦四年四月二日に遙堪社領が、永久二年六月一八日(ただしこれが誤りであることは何度も述べたとおり)遷宮直後の②同年一一月二五日に遙堪河手郷が、久安元年一一月二五日遷宮直後の③一二月二二日に武志郷と鳥屋郷が、建久元年六月一八日遷宮翌年の④同二年四月二六日に大田郷が寄進されている。最後の安貞二年八月二五日は幕府によるとされるが、知行国主二条定輔が死亡した安貞元年七月と、平有時(知行国主は平有親であろう)が補任された一年一〇月の一〇ヶ月後である。
 造営・遷宮を行った出雲守との関係でいうと、①は藤原章俊の後任藤原宗美の時期であり、②は藤原顕頼が遷任する直前、③は久安二年一二月の光隆遷任の一年前、④は藤原朝経が死亡して出雲守が交替する建久八年の六年前である。一般的には、国司が庄園の寄進・立券を認めるのは任期終了間際が多く(国免庄)、新任の国司がそれを公領に戻すことも珍しくないとされる。杵築社への寄進は庄園一般の寄進とは違うが、寄進が行われるのは造営・遷宮を行った国司の任期内であり、造営ははるか先の問題としか考えられない新任の国司が寄進をすることは考えにくい。
 以上の検討結果から、建武三年孝時申状土代に記された寄進の年次は信憑性が低く、遷宮時に寄進されたと思われる。伊志見郷も幕府ではなく、宝治二年の遷宮時に知行国主平有親が寄進したものであろう。幕府が寄進者なら地頭職も考えられるが、康元元年の注進状の記載内容は他の所領と変わらない。このような検討は当然必要だが、他の研究者は全くされないのが不可思議である。
  

出雲大社領の寄進時期1

 出雲大社領には正殿遷宮時に国司から寄進された所領と、それ以外の所領があり、後者は年貢納入が神主ではなく別納の扱いとなっている。その区分を示すのが、建暦三年(一二一三)に比定されている領家藤原雅隆袖判御教書である。そこでは神主(中原孝高であろう)に対して、大社領郷々浦々の知行が安堵されているが、その内、出西郷・同(出西)富、高墓(濱ヵ)、石墓(塚ヵ)と稲岡郷は別納の地であるとしている。ここに見えない国司寄進の所領=遙堪社・遙堪河手郷、鳥屋村・武志村、大田郷とともに知行せよとしている。後者が大社政所と神主の直轄であるのに対して、前者は本来の開発領主が年貢納入を請け負っているのであろう。
 この内、出西郷については建武三年孝時申状土代では孝時先祖開発の私領であるとされ、建久五年(一一九四)三月二一日出雲孝房譲状(年記より後に作成されたもの)にも孝房親父国造宗孝の時に神領に申し寄せたとする。富も同様であろう。高墓、石墓、稲岡郷については具体的情報がないが、康元元年(一二五六)一二月 日大社領注進状にみえるにもかかわらず、文永八年(一二七一)一一月 日頭役結番帳中の杵築社領にはみえない。
 すなわち、そこには国司寄進の遙堪郷、武志郷、鳥屋郷、大田郷、別納の出西郷、さらには鎌倉幕府が寄進したとされる伊志見郷がみえるのみである。一方、康元元年注進状には大田郷はみえず、注進状にみえる高浜郷、稲岡郷、千家村、北島村、石塚村は頭役結番帳にはみえない。頭役結番帳には杵築社領のすべてが載せられているという前提に立てば、高浜郷と稲岡郷は遙堪郷に含まれており、千家村、北島村、石塚村は結番帳では大田郷と表記されているのだろう。
 承久の乱後の安貞二年(一二二八)八月二五日に寄進された意宇郡伊志見郷については、寄進者が鎌倉幕府である点と、他の寄進時期が正殿遷宮終了直後であるのに対して、仮殿遷宮の翌年という点が異なっている。

2019年9月17日 (火)

姉小路親王令旨

 嘉禄元年四月二一日権大僧都某奉御教書があるが、原本は残っていないようで、それを収録した国造系譜では「姉小路親王令旨」と呼ばれている。別当に対し、大社神主職について承明門院令旨を遵行すべきことを伝えている。具体的には神主職は神殿造営に依り補任される相伝職だとして、出雲政孝の訴えを認め、政孝を神主職に補任するという命令である。
 本来、神主補任権は領家の権限であり、普段なら効力を持ったかは疑問であるが、前年に領家雅隆が死亡し、弟家隆に領家が交替した隙を突く形で政孝が訴えたのであろう。建治二年二月 日領家下文では嘉禄造営時に政孝が旧記を持っていたために神主に補任されたと記されており、領家家隆も認めたと思われる(同時期の下文が残っているのに、なぜ補任の下文がみられないかは不明だが、不都合な内容も記されていたのであろうか)。
 当該文書にはどこにも姉小路親王の名は記されておらず、承明門院令旨と呼ぶべきではないか。姉小路ならず綾小路親王とは、土御門院の第二皇子尊守で、後嵯峨院(邦仁王)より一〇年長の異母兄で、嘉禄元年には一六歳である。元仁一年(一二二四)七月二八日には綾小路殿で伝法灌頂を受け、安貞一年(一二二七)一二月には阿波(土御門)院皇子が綾小路千日入堂したことが見える。次いで寛喜三年(一二三一)四月二五日には比丘尼観如が督三品(参議兼右兵衛督藤原雅経ヵ。観如は大江広元娘ヵ)の遺領である大和国曽我庄外五庄を、無品尊守親王に譲り、朝廷がこれを安堵している。
 嘉禎元年一二月二九日には紀伊国阿弖河庄預所を湯浅宗光室とその子の二代安堵するという桜井宮(鳥羽院子覚仁法親王)袖判下文(法橋某が奉じている、鎌倉遺文四八七八)が出されているが、これには、宮(桜井)御方御文一通(大弐僧正奉)と承明門院御教書一通が副えられていた。後者は最初に述べた文書と同形式であったと思われる。

 

2019年9月16日 (月)

坊門院範子と光隆の関係

系図では母が誰かは記されていても母方の祖母(母の母)については情報がない。ケースバイケースで判断するしかない。藤原宗兼の子については宗長外二名のみ、日野有信の娘が母であると記され、池禅尼と問題の宗親については記載がない。有信娘以外の宗兼の妻は知られていない。とりあえず、嫡子宗長の姉であろう禅尼は同母の可能性が高く、宗親の母は不明としておく。
 範子の母小督についても父が信西の子成範であることのみ確認でき、母は不明である。そうした中で範子と光隆との間に関係があることを前提に考えると、成範の妻(小督の母かどうかは情報がない)が藤原為通の娘であることが注目される。為通の妻で嫡子泰通の母である女性は源師頼の娘であるが、光隆の妻にも師頼の娘がいる(その間の子については不明)。
 為通の嫡子泰通(頼朝ど同年=1147生)は父為通(1112-54)の死亡時に八才であったため、為通の叔父成通(1097-1162)の猶子となった。成範(頼朝より一二才年長=1135生)の妻についても同様に成通の猶子となったのではないか。小督が頼朝より一〇才年少(1157生)であることを考えると、小督の母は泰通の姉であろう。
 女性の情報が限られるため、推測に推測を重ねた形となるが、光隆と範子の関係をつなぐのは、光隆の妻の一人(師頼娘)と小督の祖母(師頼の娘)が姉妹であったことではないか。表現を変えると、小督の母が光隆妻の姪であったことである。光隆の嫡子雅隆の母は成通の兄(為通の伯父)である信通の娘である。
 為通は崇德天皇の寵臣であり、父伊通が自分以外の参議四名が同時に権中納言に昇進したことに納得できず、一時籠居したことで官職を止められたが、為通→崇德→鳥羽という働きかけにより、三年後に参議に復帰して間もなく権中納言に昇進できた(『水鏡』)。為通は待賢門院流であり、泰通の長子経通は隆季(家成嫡子)の娘を妻とし、次子国通は、夫平賀朝雅を失った時政娘(母牧の方)と再婚している。さらに、泰通の娘は滋野井実宣(公時と吉田経房の娘の間に生まれた)の妻となっているが、実宣もまた時政と牧の方の間に産まれた娘を妻としていた。時政は娘婿である平賀朝雅の変(1205)で失脚しているが、実宣は時政の娘婿となった効果で参議であった父公時を超えて権大納言に昇進している。繰り返しになるが、牧の方の父が池禅尼の兄弟宗親であることは全く必要ないのである。

2019年9月15日 (日)

本朝通鑑と国造家4

 治承・寿永の乱で平氏方となった出雲国関係者もおり、国内の三分一程度は東国御家人が地頭に補任されていた。彼らにとっては一宮出雲大社はなじみがなかったが、頼朝の命とあれば従わざるを得なかった。その結果、惣検校交替から四年後に遷宮を行うことができた。過去の三度の遷宮も、仮殿遷宮後三から五年後に行われており、遜色はなかった。この次の宝治の遷宮は、仮殿遷宮の二一年後であった。惣検校が造営旧記を参照できず、造営が進まない点があったが、旧記を所持した国造政孝の子義孝が補任されてからでも一三年後であった。守護佐々木氏が支援したが、承久の乱後、八割は東国御家人が地頭に補任されており、且つ、頼朝の支援とはレベルが違っていた。
 春斎に働きかけた二人の内、佐草自清は千家から北島方上官である佐草家に養子に入っている。両国造家も対立するだけでなく、協力もしていたことがわかる。過去の歴史資料を調査し、『出雲国造等勘文案』を作成し、建武三年頃の国造孝時解状土代も彼が写しを作成し、佐草家に残されてきた。これがなければ出雲大社史の解明は相当程度困難であった。
 その中でも自清は前述の『本朝通鑑』の内容とともに、資忠が遷宮直前に更迭された理由を「遷宮旧記」を帯していなかったためともしているが真っ赤な嘘である。承久の乱までは、出雲国衙や大社政所に関係書類は保存されていた。それが承久の乱で、当時の惣検校であった中原孝高をはじめとする出雲国衙の有力在庁官人の大半が没落した(国造が属する出雲宿祢一族も没落し、その結果、相対的に国造の地位が向上した。)際に、関係史料は失われたと思われる。孝高は在庁官人No2の中原頼辰の息子であったが、国造孝房の外戚でもあり、惣検校に補任されていた。
 『通鑑』の建治二年の項には、文治二年の内容を繰り返した上で、資忠の孫孝高が国造孝綱と惣検校をめぐり争ったことと、孝高の子実高と孫実政も国造と惣検校を巡り「動争」したと記す。何と、国造家のライバルをすべて中原氏にしてしまったのである。実際、中原氏であったのは孝高のみで、資忠と実高・実政父子は出雲宿祢一族であった。二〇〇四年までは、これが歴史の偽造であることが研究者にも認識されておらず「中原資忠」「中原実政」と記されていた。
 頼朝と光隆の関係については、両者とも「待賢門院流」に属するが、それだけでなく、光隆の父清隆が頼朝の父義朝の叙爵・下野守補任を実現したこと、頼朝の同母妹坊門姫が光隆の坊門亭で育てられたこと、義朝の母藤原忠清の娘が、父忠清の出家により、為義との結婚や義朝出産時には忠清の甥清隆の庇護下にあり、それが平治の乱後、孫娘を伴い、清隆の嫡子光隆を頼ったことは既に述べたとおりである。

本朝通鑑と国造家3

 再び惣検校を更迭された国造側は、国造の惣検校補任が望ましいとする在庁官人解状を領家建久二年七月に提出して再考を求めた。その際の根拠として作成したのが造営旧記であった。当然のことながら、ライバル資忠が行った文治二年から建久元年に至る造営に関する史料は写されていない。唯一、造営が終わり、朝廷からそれを認める命令が出たことのみを記している。国造が惣検校となったのは文治二年五月の更迭以来であり、在任期間も遷宮の前後と限られていたが、その短い期間に関係史料から写して作成した。よくある誤りだが、前の記事を受けて「同年」と記した部分で誤ってしまい、「天永三年」の遷宮を「同=永久」三年と解釈せざるを得なかった。ところが、造営・遷宮を行った藤原顕頼は永久二年末に出雲守から三河守に遷任しており、解状では「永久二年」と記した。弘安四年に遷宮は常に国造兼神主が行ってきたとの注進状を作成した国造義孝も「永久二年」と解釈し、南北朝初期には旧記を「治暦・永久旧記」と呼んでいる(治暦・天永旧記である)。これに対して『大日本史料』の編者も困ったが、とりあえずは遷宮の記事を永久三年に入れた。
 領家も、すぐに判断はだせないので、翌三年七月になって四年度の惣検校補任の下文を出した。当然、それまでは資忠が惣検校である。また新たな結論も資忠の留任であった。この一連の過程をみれば、領家の意思は明確であった。国造がどれほど多数の在庁官人の署名を得ても関係なかった。資忠の実績は大社本殿の造営や大社領の管理で証明されていた。それに、頼朝の支援があった。頼朝は資忠のみならず、出雲国目代にも御家人兵衛尉政綱の起用を求め、知行国主藤原朝方の同意を得ていた。文治二年以来の造営事業は頼朝の御家人である資忠と政綱により行われ、頼朝もこれを全面的にバックアップしていた。ただし、目代政綱は文治五年に義経との関係を疑われ解任された。後任は不明である。

本朝通鑑と国造家2

 『吾妻鏡』文治二年五月三日条には、国造則(孝)房が総(惣)検校職(神主職、以下では惣検校を使用)から更迭され、代わって同(出雲)資忠が補任されたことが記されている。2004年に論文「中世前期出雲大社史の再検討」(研究会での報告はしていない)を発表するまで、「同資忠」が無視され、『大社町史』や研究論文では「中原資忠」と記されていた。
 『通鑑』によれば、国造側は「同」を理解しており、資忠が他姓であるのに出雲姓と偽って惣検校職に補任されたが、国造以外の他姓の人物では遷宮時に御神体を奉懐できないことを主張し、遷宮直前に資忠から孝房に交代したと主張した。国造は出雲大社で神事を担当するポストで出雲宿祢一族から補任されてきた。ただし国造家=出雲宿祢ではなく、出雲宿祢一族は平安末期には出雲国衙在庁官人としては勝部宿祢に次ぐ勢力を持っていた。資忠が内蔵氏とも呼ばれたのは、出雲宿祢一族の中で、内蔵(公の大蔵に対して、出雲大社の神事に使用する祭器などを納めた蔵か)の管理を行っていたためであろう。
 遷宮直前に惣検校が交替したのは事実であるが、そこに至るまでの造営を行ったのは内蔵資忠であったし、遷宮が終わると、領家は再び惣検校に資忠を補任している。惣検校は現地における出雲大社の管理権を有し、国造もその管理下にあるが、国造が惣検校に補任されることもあった。基本的には一年契約で、請文(年貢納入の条件等を記す)提出者から領家が選んで補任した。とはいえ、短期間で交替するのは管理面で問題があり、特別な場合である。通常の交替の場合、前年の秋(七月~九月)に補任し、次年度春からの業務に支障がないようにした。

本朝通鑑と国造家1

 ここのところ記事をアップしていないが、松江市史講座の準備で余裕がなかったからである。昨日終わったので、その直前に気づかされた点について述べてみたい。
 『本朝通鑑』は江戸幕府の命を受けた林羅山・春斎父子が編纂した編年体の通史である。朝廷、諸大名、寺社などに史料の提出を求め、寛文一〇年(一六七〇)に完成している。七年間での完成は早いが、その前提となる作業として、林羅山が家光の命を受けて正保元年(一六四四)に完成した『本朝編年録』があった。これが明暦の大火(一六五七)の大火で焼失したため、この増補完成版として『本朝通鑑』が編纂された。倫理的な判断よりも史実を重視したと評価されている。同様に、『本朝編年録』の焼失を機に編纂が始まったのが、徳川光圀の『大日本史』であるが、こちらは倫理的な判断を重視しており、近代の歴史家久米邦武からは劇本の類いと批判されたが、哲学者西田幾多郎からは高く評価されたという(この部分はWikipediaを参照した)。
 『大日本史』編纂の最大の目的としては天皇に補任された将軍の正当性を明らかにすることがあり、朱子学の大義名分の立場から、南北朝の分立については南朝を正当とした。とはいえ、『大日本史』の詳細を現時点では把握していないので、この程度としておく。
 この問題については西岡和彦氏『近世出雲大社の基礎的研究』に述べられているが、林春斎のもとに国造家関係者(嶋市之丞と佐草自清)が訪れ、『吾妻鏡』から漏れた出雲国造の惣検校職兼務の史実を書き入れるよう依頼し、その史料を提供した(漏れたのではなく、そのような事実はなかった)。当時の出雲大社も「出雲国總検校職」であることを保証させ、一〇郡すべての神社への支配権を得るためであった。ただし、後に佐陀神社との裁判に敗れ、藩主松平氏から二郡(島根郡、縦縫郡)半(意宇郡西部)は佐陀神社の支配とされた。これに不満を持つ両国造家は、幕府に訴えようとして(いわゆる越訴=直訴である)、藩主の怒りをかい、当主二人が隠居されられ、国造を子に交替させられた。
 西岡氏の著書では、建治二年の項に、国造側の史料が挿入されたことのみ記されているが、国会図書館デジタルで『本朝通鑑』を閲覧すると、文治二年の項にも、挿入されていた。『通鑑』としては、完全に事実として認定しているのではなく、一つの主張として挿入しているが、読む人によっては、これが事実であるとのお墨付きを得たと思い込んでしまう。

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