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2019年8月 6日 (火)

下野守藤原宗国3

 仁平四年正月に頼長の嫡子兼長が春日祭上卿として南都に向かい、天皇と院の殿上人が前駈をしているが、「蔵人大夫」経憲は新院(崇德院)の殿上人と記されている。頼長とその子師長並びに崇德院と結んだこともあり、経憲は『保元物語』で崇德院のもとに集まった貴族の中にその名がみえるだけでなく、実際に七月二七日には罪名を下された中にも「散位経憲」がみえている。
 以上、宗国が忠実の家臣であったのを受け継いだ子経憲は頼長・隆長の家臣となるとともに、崇德院との関係を深めて、保元の乱で処分され、歴史の表舞台から姿を消した。宗国が藤原宗長の後任として下野守に補任されたのは忠実との関係であった。その後任義朝に対しても、藤原清隆と並んで摂関家が後押しをしたと思われる。前述のように、義朝の子で後継者の候補であったのは波多野氏の娘を母とする朝長と熱田大宮司季範の娘を母とする頼朝である。いずれも頼長との関係をうかがわせるものであり、ある時期に義朝が頼長に接近したのは確実であろう。
 さらに朝長の母について補足しようと思ったが、義朝の妻の父義通が嘉承二年(一一〇七)の生まれで、義通の母方の祖父藤原師綱が康和年間(一一〇〇)頃の生まれ(師綱の祖父師季は1059年生)では計算が合わない。義通とその父とされる遠義が同一人物でないと、世代間のズレが大きすぎる。その問題を無視すると、朝長の母系を辿ると藤原師綱につながり、師綱と藤原俊忠(歌人俊成の父)の娘の間に生まれた女性が藤原朝方の妻となり嫡子朝定と弟朝経を生んだこととなっており大変興味深い。
修正:この経憲もまた宗国の子ではなく、顕憲の子である。

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