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2019年8月28日 (水)

藤原宗長について2

 卜部兼仲の和泉守は女院が出家する直前に日野光盛に交代したが、宗長は女院が死亡する直前の久安元年正月まで七年間石見守を務め、日野資憲が辞任した跡の下野守に遷任したと思われる。石見国は忠通の知行国となり、家臣の源清忠が大和守から遷任してきたが、大和国では忠通による検注に対して、興福寺が激しく抵抗した。これが石見遷任の原因であった。
 仁平元年二月一六日には頼長の侍として散位宗長がみえ、久安五年三月一八日に下野守を退任し、後任の藤原宗国と交替した。資憲、宗長、宗国ともに摂関家との関係者であった。宗長が翌仁平二年一月五日に従五位上に叙せられたのも、高陽院とその父忠実の申請に基づくものであった。同年八月一四日には頼長が石清水八幡宮の参詣しているが、その中に院殿上人として前下野守宗長がみえる。同年一二月八日には高陽院泰子の養女となっていた叡子内親王(美福門院娘=高陽院内親王、久安四年に死亡)の仏事が仁和寺勝功徳院(内親王の死後、肥後国鹿木庄が寄進された)で行われている。その布衣八具を摂関家領大田・大島庄に課して、宗長が調進している。庄園の管理にあたっていたのだろう。
 仁平三年三月一日の摂関家の仏事にも宗長が扈従しているが、『本朝世紀』六月一九日条には前下野守藤原宗長が卒去したことが記されている。鳥羽院、崇德院、摂関家(忠通、高陽院、頼長子兼長)の家臣を兼ねていた日野資憲と同様、宗長も待賢門院と摂関家(高陽院、頼長)の家臣を兼任していたが、これは特別な例ではなかった。

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