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2019年8月17日 (土)

平重盛の周辺1

 『平治物語』の頼朝助命の場面では、当時二三才であった清盛の嫡子重盛も重要な役割を果たしている。その背景(事実ではないとの見方も可能だが、その場合でもなぜ重盛にその役割を担わせたのかという点が重要である)について確認する。平治の乱の時点で重盛は正五位下左衛門佐兼遠江守で、乱の勲功で伊予守に補任され、従四位下に叙された。
 重盛は清盛の最初の妻と思われる高階基章の娘を母として、清盛が二一才の時に生まれている。翌年には同母弟基盛が誕生しているが、その他の兄弟は知られておらず、久安三年(一一四七)には異母弟(母時子)宗盛が生まれている。基章の母が死亡したためであろうか。基章は源家実の子であったが、高階為家の養子となった。基章の同母兄弟為忠も藤原国明の養子となっており、家実の死ないしは出家がその背景と考えられる。
 白河天皇の乳母を母とする国明は、藤原師基の子であったが、白河院のご意見番源俊明(妻は師基娘、鳥羽天皇の外戚藤原公実の摂政補任要求を不当とし、白河に思い留まらせた)の養子となり、国明も白河院庁の別当となった。国明の養子となった為忠は妻なつとも(待賢門院女房)とともに白河崩御の際に立ち会った院近臣であった。一方、基章の計歴に特筆すべき点がないのは早くに亡くなったためであろう。基章の娘が清盛の妻となった時点では為忠(重盛誕生の二年前に死亡)の関係者の庇護下にあったであろう。
 為忠・なつとも(橘大夫の娘)は白河院・待賢門院との関係が深かったが、その子為経と美福門院の乳母夫藤原親忠の娘美福門院加賀との間に生まれた隆信は女院分国の国守を歴任した。似絵の名手として知られ(神護寺の頼朝・光能・重盛像の作者との説は近年否定された)、子信実は水無瀬神宮蔵「後鳥羽院像」の作者とされている。隆信は母加賀の再婚相手である藤原俊成のもとで育てられたこともあって、実夫為経(寂超)とともに歌人としても知られている。
(修正)国明の養子為忠=基章の同母兄となつともを妻とした為忠は別人であった。

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