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2019年8月22日 (木)

藤原光隆と源兼忠1

 古沢恒平氏「豊後大友氏の出自とその親交圏」を国会図書館にコピーを依頼して入手した。野口実氏「治承・寿永内乱にともなう鎌倉勢力の鎮西進出について」(京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要第28号、2015年)で、範子内親王を養育した藤原光隆と、源雅頼(斎院判官代親能はその家臣で、且つその妻が兼忠の乳母であった)の嫡子兼忠が縁者であるとし、その典拠が古沢氏論文であったためである。この論文が掲載された「大分県地方史」は、おそらく日本史学科のある大学図書館の一部にしか所蔵されて居らず、地元大分県立図書館の蔵書検索でもヒットしなかったためである。  一読したが、なお疑問が残る。兼忠の母が藤原家成の娘であり、家成の子実教の妻が光隆の子であることが述べられているが、兼忠は雅頼三五才時の子で、その時点では母方の祖父家成は死亡(1154年)している。兼忠の養父に源俊定がおり、兼忠は承安二年(一一七二)一〇月二六日に俊定の譲りにより侍従に補任されている。兼忠の父雅頼の母は源能俊の娘であるが、能俊の嫡子が俊定の父俊雅である。俊定が兼忠の養父となったのは、兼忠の母=家成の娘が早くに死亡したことが原因であったと思われる。家成の嫡子隆季やその弟家明がいたが、実教は兼忠誕生時に一二才でしかなかった。兼忠母と前述の男子が同母か異母であったかは不明である。  以上の点から、源雅頼・兼忠父子と光隆の関係は、それほど強いものではなかったと思われる。  光隆が範子を育てた経緯も不明である。光隆の嫡子雅隆は治承二年に範子が斎院となった際に勅別当となっており、光隆の娘を妻とする実教は治承四年四月一日から寿永二年一月一四日まで斎院長官であった。その際に次官に補任されたのが雅隆の弟兼隆であった。仁安二年(一一六七)八月二三日に光隆が任権中納言の拝賀を行った際に、備後守雅隆とともに散位兼隆がみえていた。

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