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2019年8月15日 (木)

吉田庄領家宗成について

 この人物について述べるのは『松江市史』通史遍原始・古代で、出雲国で早い段階で成立した庄園として、摂関家領福頼庄と吉田庄が挙げられ、吉田庄は建長年間の近衛家領目録の中で藤原宗成が領家であったと述べられていたからである。典拠として『講座日本荘園史』九巻で井上寛司氏が出雲国の庄園を概観した報告が挙げられていたが、そこには藤原宗成の記載はなかった。『島根県の歴史』の中にもなし。『島根県の地名』の吉田庄(井上氏担当)にあった。
 敢えて名前を記しながら、それがどのような人物か説明がないのが不思議であった。近衛家の目録に記される庄園に付せられた人名については、永原慶二氏が庄園成立に関わった人々と解釈されて独自の論を展開されたが、後の研究で建長年間の領家であることが明らかになり、永原説は現時点では否定されている。
 井上氏が宗成を藤原氏とされた根拠は不明だが、実際には高階時宗の子で、私歌集『遺塵和歌集』で知られた人物である。従四位上(公卿にならない貴族の極位)左京大夫が極官で公卿にはならなかったため、その生年は不明であるが、井上宗雄氏『改訂新版 中世歌壇史の研究 南北朝期』によって、寛元五年正月一九日の近衛兼経の摂政就任時の拝賀扈従の地下前駈の中に、高階宗成〈被補勾当〉とみえることから、この時点で近衛家に近侍していたことが明らかにされている。寛元二年正月二三日の除目では大膳権亮(亮が従五位下相当)に補任されている。建長二年五月二〇日の源具実内大臣拝賀でも「散位宗成」とみえ、永仁二年五月二八日の禁裏和歌御会の参加者として「左京権大夫宗成朝臣〈初参〉」がみえる。一方、寛喜二年二月八日に藤原宗成が従五位上に叙されているが、これは別人である。
 宗成は近衛兼経だけでなく、基平・家基・家平の四代に亘って近衛家に仕えており、その活動は一四世紀初めにまで及んでいる。建長七年一二月一七日に近衛基平が左近大将に補任され、夜には随身所始を行っているが、父である前刑部少将(従五位下相当)高階時宗が備後守平信輔とともに別当に補任されている。さらに祖父為宗は寛喜三年四月一四日に権中納言日野頼資の知行国である上総国の守に補任されている。頼資は日野氏惣領兼光の子であるが、兄資実が九条家に仕えたのに対して、近衛家に仕えていた。為宗の曾祖父宗章は白河院の近臣であったが、祖父清章は美福門院に仕え、皇后宮少進から女院判官代となり、その娘は、美福門院とその子八条院に仕えて公卿となった藤原実清の室となっている。
 以上の状況から、宗成の祖父為宗の代から近衛氏に仕え、吉田庄領家であった可能性が大きい。宗成は正安二年に歌集『遺塵和歌集』を編纂した後にも、嘉元元年に『嘉元百首』を詠進しているが、その御の消息は不明であるという(錺武彦「『遺塵和歌集』と高階宗成」(国語国文884、2008年)。宗成は近衛家領目録作成時には二〇才前後で、叙爵前ではなかったか。

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