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2019年8月 5日 (月)

義朝の外祖父藤原忠清再論

 義朝の母が、幼少の孫娘とともに平治の乱後、実家である藤原清隆・光隆の保護を受けたことを述べたが、そこで気になったのが、清隆の父隆時と忠清の関係である。前の記事では異母兄弟であるとしたが、『尊卑分脈』では隆時の母を信濃守平貞盛とし、忠清については「母同」と記す。貞盛の系譜上の位置づけは確認できていないが、問題は隆時と忠清の間に記されている隆能で、母は高階為行女とある。このため、忠清の母を為行の娘とした(大日方氏の論文でもそう解釈している)が、この隆能は清隆の子としても記され、清綱の子隆能が清隆の養子となったとしている。兄が弟を養子とする例はままあるが、叔父を養子とすることは物理的、時間的に不可能と思われるので検証してみる。
 高階為行は後冷泉天皇の子であったが、諸般の理由で高階為家の養子となった。長暦二年(一〇三八)生の為家に対して、為行は康平二年(一〇五九)に生まれ、嘉承二年(一一〇七)に四九才で死亡している。一方忠清は永久四年(一一一六)正月以前に四八才で出家しており、治暦年間(一〇六五~六九)の生まれであろう。妻とした為行娘を為行が二〇才の時の子とすると、承暦二年(一〇七八)の生まれとなり、夫忠清との間には一〇才程度の年齢差が想定できる。
 一方、隆能はその活動期間からみると清隆の養子ではなく実子であろう。長承三年(一一三四)八月二七日鳥羽院が待賢門院とともに鳥羽に御幸した際の供奉人として、通憲(信西)とともに隆能がみえる。次いで久寿元年(一一五四)八月九日に隆能が鳥羽金剛心院の扉絵を描いた賞として従五位上に補任されている。翌年九月二三日には主殿頭隆能の子隆成が後白河天皇への昇殿を認められている。隆能との上下関係は不明だが、元永元年(一一一八)には平正盛の娘と清隆の間に二男隆盛が生まれている。よって忠清の「同母」とは兄隆時と同じと解される。隆重にも「同母」とあり、隆時、忠清、隆重はいずれも平貞盛の娘を母とする同母兄弟であった。これに対して、隆時の嫡子清隆は寛治四年(一〇九〇)年の生まれであるから、高階為行より三一才年下であり、清隆と為行の娘との結婚には無理がない。
 頼朝と坊門姫の母は保元四年に死亡し、母方の祖父熱田神宮大宮司藤原季範も久寿二年に死亡している。また、平治の乱で大宮司家の人物で義朝方となった人は確認できない。義朝の母が実質的実家である藤原清隆・光隆父子のもとで坊門姫を育てたのは確実であろう。 

 

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