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2019年8月22日 (木)

藤原光隆と源兼忠2

 これに対して、建久九年(一一九八)三月に範子が甥である土御門天皇の皇后宮となった際に、大夫藤原頼実(清隆娘が母)、権大夫実教、亮公頼(実教の子、母光隆娘)、大進平親国(光隆娘が妻)、権大進藤原兼隆が補任された。翌四月二一日には皇后宮範子の行啓に伴う勧賞として、兼隆が従五位上に叙され、藤原光子が従五位下に叙せられている。この兼隆は前述の斎院次官兼隆とは別人で、長方の子兼隆(高)である。藤原光子もその名前から光隆の娘で、範子の乳母となるとともに、実教の妻となったとの角田文衛氏の説があり、古沢氏の論文でも利用されているが、誤りで、藤原範光の娘で、按察使典侍、坊門院光子と呼ばれていた。
 光隆と範子の間に関係があることは明白であるが、その背景となるものについては不明である。建久九年一一月二一日には皇后宮大夫頼実が右大臣に補任されたことに伴い、権大夫実教が大夫に昇格し、実教跡の権大夫には雅隆が補任されている。
 なお、源雅頼はその亭の所在場所から壬生中納言と呼ばれたが、光隆もまた猫間中納言ないしは壬生中納言と呼ばれた。その亭が所在したのが坊城の壬生(猫間)の地であったことに由来する。雅頼と賀茂斎院との関係は、久安四年六月二三日に頼長の子兼長が侍従拝賀のため、土御門斎院(白河院子禎子内親王)御所を訪れた際に、雅頼が取り次ぎを行っている。
 古沢氏論文は二〇〇九年三月発行の「大分県地方史」206号掲載であるが、藤原能盛について、正木喜三郎氏の旧説=能盛一人説を基本として述べられている。正木氏は後に批判を受け入れ、清盛側近の能盛と後白河側近の能盛は別人であるとの能盛二人説に転じており、これが正解である。古沢氏も二人説の存在には言及しているが、この点が無用の混乱を与えるのは残念である。

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