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2019年8月11日 (日)

藤原清隆と光隆3

 これに対して、建久年間の光隆の場合は、九州における鎌倉幕府の支配体制の転換にかかわったとされる。すなわち、天野遠景が鎮西奉行人を解任され、中原親能が武藤資頼とともに鎮西統治の担い手として登用されたこととの関係である。親頼は早くから朝廷と幕府のパイプ役となっていた源雅頼に仕える一方で、斎院次官を務めていた。その斎院とは高倉天皇と小督との間に生まれた範子内親王であるが、光隆は幼少時の範子の養育者であり、範子は准母、皇后を経て院号宣下された際に、御所の所在地にちなみ、坊門院と呼ばれたが、これは幼少時に育った光隆亭に隣接してあった。頼朝の同母妹が坊門姫と呼ばれたのも、光隆亭で養育された事による。
 親能の妻は雅頼の嫡子兼忠の乳母となっていたが、光隆は兼忠の縁者でもあったというただし、どのような「縁者」であったかは現時点で確認できていない。(野口氏は古沢恒平氏「豊後大友氏の出自とその親交権」に基づき述べべられるが、当該論文は未見)。両者がいわゆる待賢門院流に属していることは確かだが、それ以上にどのような関係があったのであろう。頼朝と光隆との関係としては、光隆が領家である前斎院領出雲大社領の神主として、頼朝が過去に恩を受けた内蔵資忠を推薦し、補任を実現し、建久元年の遷宮をなしとげたことがある。
 ちなみに、天野遠景と関係があったとされる吉田経房の後任は、文治六年正月に補任された藤原範能であった。範能は信西入道の子脩範と平範家の娘(その母は清隆の娘)との間に生まれている。その範能が建久二年一〇月に辞状を提出し、翌年一〇月に権帥に補任されたのが光隆であった。

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