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2019年8月17日 (土)

平重盛の周辺2


 基章の娘との結婚は、清盛に待賢門院(父忠盛は女院別当であった)とともに、美福門院との関係をもたらしたことになる。重盛は藤原家成の娘で、藤原経宗の猶子となっていた経子を妻としている。家成の子成親が重盛と同年齢であるため、経子は成親の同母妹と考えられているが、経子の子清経が生まれたのは、長寛元年(一一六三)であり、重盛と経子の結婚は平治の乱後の可能性が大きい。となると、重盛が妻の兄成親の助命をしたとの説は再検討が必要である。なお、清経には経盛、資盛という二人の異母兄がいた。
 清盛の後妻時子は平時信の子で、時忠の同母姉であるが、その母は令子内親王(白河院皇女で鳥羽院の准母、皇后とされる)に仕えていた女性である。彼女が後に頼長側近藤原顕憲との間に産んだ能円は、異母兄が保元の乱で頼長方となり没落したのに対し、一四才年上の異父姉時子の養子となり、法勝寺執行となった。能円の娘在子は御鳥羽院の子為仁親王(土御門院)を産んでいる。時子が清盛の妻となった時点では、滋子(建春門院)の母である藤原顕頼の娘祐子が時信の正室で、時子、時忠兄弟もその下にあった。
 顕頼には藤原清隆の妻となった妹がいたが、彼女は後に異母叔父朝隆の妻となり、保延元年(一一三五)には嫡子朝方を産んでいる。清隆・光隆父子が平治の乱後、義朝の母とその孫である坊門姫(頼朝同母妹)を保護したのはすでに述べた通りである。清隆の子隆盛は平正盛の娘を母とし、清盛の従兄弟である。
 以上、重盛と頼朝助命の関係について確認したが、重盛もまた待賢門院流の関係者であることは確認できたが、それ以上の特別な関わりがあったかどうかは不明である。なお、忠盛の子忠度が藤原為忠の娘を母としている。

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