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2019年8月11日 (日)

藤原清隆と光隆2

 当時は権帥と大弐のいずれかが在任することが多かったが、権帥清隆・忠基と大弐清成・頼季という体制が久安五年から保元元年まで、異例なほど長く続いたことがわかる。成勝寺領豊前国伝法寺庄は仁平二年(一一五二)に藤原忠通の子覚忠によって寄進・成立している。本庄四〇町、加納三〇〇余町という大規模庄園であった。その環境整備が行われたのは久安三年(一一四七)正月二八日に豊前守に補任された中原重基の時代であったと考えられる。今回は太史枠で国守に補任されたものである。
 重基の系譜上の位置づけは確認できていないが、右大史と左太史を歴任する一方で、保安二年九月一二日の忠通主催の歌合に参加しているように、歌人としても知られていた。白河院死亡後の大治四年八月一六日には待賢門院の新たな別当が補任されているが、その中に「重基」がみえる。当時活動している人物に医家丹波重基もいるが、別人で、中原重基に比定できる。このように、待賢門院との関係を有した人物であった。重基の後任と思われる橘清仲は仁平二年正月二八日に補任されたが、任国に赴任した八月に河尻辺で死亡している。兵部丞から式部大丞に進み、御弓奏や神楽等の儀式に関わる一方で、省試の監試を勤めており、豊前守補任時には六〇才を超えていたと思われる。
 平貞賢が豊前守に補任されたのは翌三年三月であった。元永二年九月二一日に白河法皇が熊野詣をした際に、御共をした北面下臈として、備中守平正盛、石見守藤原盛重に続いて平貞賢がみえており、白河院と関係の深い人物であった。
 筑前国でも保元の乱以前に粥田経遠により粥田庄が成勝寺に寄進され成立している。これも建久図田帳で本庄八〇町、加納六〇〇町余で、その上、加納の一部六〇町が豊前国に及ぶ大規模庄園であった。経遠は保元の頃には筑前国嘉麻保浪郡内三か村を近衛天皇の御願寺延勝寺に寄進したとされる。新たな庄園の寄進先が変わったのは乱で崇德院が没落したためであろう。
 以上の状況から、藤原清隆が鳥羽院・美福門院のみならず、崇德院との関係を維持していたことは明白であろう。鎌倉初期の成勝寺相折帳で確認できる所領以外にも成勝寺領が存在し、大規模なものがあったことがわかる。そうした背景には、崇德院が鳥羽院の没後、院政を行う可能性が高いと思われていたからである。

 

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