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2019年8月 6日 (火)

下野守藤原宗国2

 康治二年以降は関係史料がなかったが、久安五年には下野守に補任された。年齢は六〇才半ばではなかったか。その四年の任期が終了したので、仁平三年(一一五三)三月二八日に後任として義朝が補任されると同時に叙爵した。この補任と叙位を実現した立役者が藤原清隆であったことはすでに述べた通りである。清隆は鳥羽院・近衛天皇の近臣であったが、崇德院との関係も強かった。鳥羽院との関係によるならば「故善子内親王合爵」(妻の兄藤原範忠は「子聡子内親王合爵」)という回りくどい形を取る必要はなかったであろう。僐子内親王は白河院の娘で伊勢斎宮をなったが、斎宮を退任し、嘉承二年一二月三〇日夜半に都に戻ったが、その際の御所とされたのは清隆の父故隆時の中御門富小路宅であった。隆時の父の兄弟惟綱の娘には源顕房の妻となった惟子(因幡掌侍)とともに閑院流仲実の妻となった女性(前斎院女房)がいた。
 宗国の子経憲の動向を合わせて確認する。康治二年に雅仁親王蔵人であったことは前述の通り。久安五年一〇月一日には一六日の頼長子師長の元服の雑事が定められているが、裳燈行事として経憲がみえる。一九日には師長の職事として従五位下藤原朝臣経憲がみえ、宗国に次いで子の経憲も摂関家の家臣となっていた。仁平三年八月八日には頼長が春日社の参詣する際の雑事が定められているが、競馬の行事の一人として経憲がみえる。次いで九月一六日には参議に補任された師長が各所を慶賀のため廻っているが、前駈の一人として経憲がみえる。ただし、いずれも「散位」であり任官はできていない。
修正:ここにみえる経憲は藤原顕憲の子であろう。

 

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