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2019年8月 2日 (金)

『暇服事』について

 佐々木氏の論文を承けて「暇服事」を検索してみると、早稲田大学図書館所蔵本の画像が公開されていたので閲覧した。写本の間で微妙な差があり、その影印が出版されている尊経閣本(佐々木氏が利用)は確認していないが、池禅尼の記事は早稲田本では応保二年(一一六二)一二月ではなく一一月一七日条に記されている。それに続いて一二月二日の記事があるので、一一月が正しく、尊経閣本は誤りではないか。臨時祭とは賀茂臨時祭のことで、応保二年の実施日は関係史料を確認できていないが、永暦元年は一一月二三日(『山槐記』)、長寛二年は一一月二一日(『雅頼記』)に行われており、この点からも、禅尼の危急による頼盛の辞退は一一月一七日と考えられる。
 中山忠親が記した『山槐記』からの抜粋であるため、忠親の縁者の死亡記事が中心だが、保元四年(一一五九)四月二六日夕方には家成の兄弟肥前前司保説が死亡している。忠親の外継父とあるが、後述の家長同様「外叔父」ではないか。忠親は三才時に父忠宗が死亡しており、七才上の同母兄忠雅とともに、母の実家=家保亭で育てられ、家保の子である家長、顕保、家成、保説、保成との面識があった。とはいえ、その死を知ったのは翌日に参院した際であり、それは家成の嫡子隆季卿も同様であったと記している。忠親の重服が解けたのは閏五月七日で、一三日から出仕することとしていたが、隆季は五日には出仕している。忠親は特別な勅定があったのではないかと推測している。
 応保二年四月二三日には刑部卿家長が死亡している。これも忠親は翌二四日に出仕した際に人から聞き、確認したところ、家長は二三日に出家し、その夜半に死亡したという。家長は「外叔父」と記されているが、年来疎遠であったとも記されている。忠親はあらかじめ知らされていなかったため、出仕してしまった。
 長寛三年正月七日には前美濃守保成が死亡している。早稲田本には「十七」とした上で、「十」に〇が付けられている。一七日では話が前後するため、誤りと判断したのであろう。このケースでも一一日に、円勝寺への御幸のため参院しようと思ったら、或人から連絡を受けたとしている。そのため八日に八省に参ったことは従事してはならなかったと記している。
 以上、忠親の母(家保の娘)の弟であるがゆえに、保説、家長、保成の死亡記事を確認できた。「高階敦政の投身自殺」で紹介したように、異母兄弟である家長と家成の仲は悪かったとされており、そのため、忠親など家成との関係が深いものには情報が届きにくかったと思われる。池禅尼の死亡時期については、応保三年正月二四日に頼盛が尾張守を辞任しており、この直後であったのではないか。

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