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2019年8月11日 (日)

藤原清隆と光隆1

 清隆とその嫡子光隆は、白河院の近臣であった隆時を越えて、正二位権中納言まで昇進したが、もう一つの共通点として、大宰府権帥を当時としては長く勤めている。
 清隆は久安五年(一一四九)三月一八日に大宰大弐を兼ね、七月二八日に権中納言となると、八月二日には権帥に補任され、仁平三年(一一五三)閏一二月二三日に権帥を辞任している。大弐と権帥を併せると四年九ヶ月の在任であった。 
 光隆は仁安三年一月一一日に権中納言を在任五ヶ月足らずで辞退し、安元二年(一一七六)一月三〇日には一九年間在任した治部卿も退任して散位となった。鎌倉幕府成立後の建久三年(一一九二)一〇月に大宰権帥に補任されると、建久九年一月三〇日まで五年三ヶ月在任した。既に述べたように、頼朝の妹坊門姫が光隆亭で育てられ、この頼朝との関係を背景として、光隆が大宰権帥に補任されたと思われる。
 清隆在任中の特筆すべき点として、大宰府の所在する筑前守が光隆の同母弟清成であったことである。清成は久安五年四月三日に若狭守を重任し、一〇月二日にも見任していたが、一一月二六日までには筑前守に遷任している(高野山文書)。在任一年未満の美福門院の乳母夫藤原親忠との相博であった。清成も一〇月二日に美福門院の殿上始の際にはその殿上人としてみえる。次いで久安六年一二月二二日に大宰大弐を兼任している。前任の筑前守親忠も大弐を兼任していたが、若狭守に遷任した時点で大弐も別の人物に交替していた可能性が高い。
 清成の筑前守兼大宰大弐は仁平四年に没するまで継続していたと思われる。その後任の筑前守には同母弟頼季が補任された。頼季も久寿二年(一一五五)一二月二五日には大弐を兼任し、平治元年正月二九日に得替している。一方、権帥清隆の後任は娘聟である藤原忠基であり、保元の乱後交替している。忠基は忠教の子で、保元の乱で崇德方となった教長の異母兄である。その兄弟教智(母は不明)は仁平四年六月三日には摂津国難波庄を崇德院の御願寺成勝寺に寄進している。教長が源行宗死亡後、兵衛佐局の養父となったのはすでに述べた通りである。

 

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