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2019年8月28日 (水)

藤原宗長について1

 池禅尼の兄弟で、待賢門院庁判官代であった宗長についで情報を整理する。宗長の母は日野実光の父有信の娘であることが系図に記されている。禅尼については母の記載がないが、宗長と年の近い同母姉であったと思われる。
 管見の限りの初見史料は、「永昌記」大治四年閏七月二一日条で、鳥羽院と待賢門院の間に産まれた第五皇子の誕生に伴う御湯始儀式に関するもので、その準備にあたる判官代として日野資光、藤原親隆(為隆子)、源清雅(職雅子)とともにみえる。父近江守宗兼は第五夜の御衣二具を甲斐守範隆とともに準備する役に当てられていた。翌五年一月二三日には、忠実の若君(頼長)が昇殿を認められたため各所を挨拶に訪れているが、女院の取次を行ったのが五位判官代宗長であり(中右記)、叙爵していたことがわかる。
 長承二年七月一三日には鳥羽院の女御として入内した泰子の家司、識事、侍が補任されているが、侍の中に宗長がみえる(長秋記)。翌三年二月六日には熊野詣でから帰る途中の待賢門院が池田御所に立ち寄っているが、そこで迎えたのは和泉守であった女院判官代宗長であった。近江守であった父宗兼は、藤原顕輔が近江守に補任された天承元年二月二〇日に和泉守に遷任したと思われるが、保安二年春から天治元年正月までに続く二度目の和泉守であった。長承三年閏一二月三〇日に重任を認められた某は宗長であり、長承二年中に父から譲られる形で和泉守に補任され、保延三年一二月二九日に卜部兼仲と相博する形で石見守に遷任した。

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