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2019年8月

2019年8月28日 (水)

藤原宗長について2

 卜部兼仲の和泉守は女院が出家する直前に日野光盛に交代したが、宗長は女院が死亡する直前の久安元年正月まで七年間石見守を務め、日野資憲が辞任した跡の下野守に遷任したと思われる。石見国は忠通の知行国となり、家臣の源清忠が大和守から遷任してきたが、大和国では忠通による検注に対して、興福寺が激しく抵抗した。これが石見遷任の原因であった。
 仁平元年二月一六日には頼長の侍として散位宗長がみえ、久安五年三月一八日に下野守を退任し、後任の藤原宗国と交替した。資憲、宗長、宗国ともに摂関家との関係者であった。宗長が翌仁平二年一月五日に従五位上に叙せられたのも、高陽院とその父忠実の申請に基づくものであった。同年八月一四日には頼長が石清水八幡宮の参詣しているが、その中に院殿上人として前下野守宗長がみえる。同年一二月八日には高陽院泰子の養女となっていた叡子内親王(美福門院娘=高陽院内親王、久安四年に死亡)の仏事が仁和寺勝功徳院(内親王の死後、肥後国鹿木庄が寄進された)で行われている。その布衣八具を摂関家領大田・大島庄に課して、宗長が調進している。庄園の管理にあたっていたのだろう。
 仁平三年三月一日の摂関家の仏事にも宗長が扈従しているが、『本朝世紀』六月一九日条には前下野守藤原宗長が卒去したことが記されている。鳥羽院、崇德院、摂関家(忠通、高陽院、頼長子兼長)の家臣を兼ねていた日野資憲と同様、宗長も待賢門院と摂関家(高陽院、頼長)の家臣を兼任していたが、これは特別な例ではなかった。

藤原宗長について1

 池禅尼の兄弟で、待賢門院庁判官代であった宗長についで情報を整理する。宗長の母は日野実光の父有信の娘であることが系図に記されている。禅尼については母の記載がないが、宗長と年の近い同母姉であったと思われる。
 管見の限りの初見史料は、「永昌記」大治四年閏七月二一日条で、鳥羽院と待賢門院の間に産まれた第五皇子の誕生に伴う御湯始儀式に関するもので、その準備にあたる判官代として日野資光、藤原親隆(為隆子)、源清雅(職雅子)とともにみえる。父近江守宗兼は第五夜の御衣二具を甲斐守範隆とともに準備する役に当てられていた。翌五年一月二三日には、忠実の若君(頼長)が昇殿を認められたため各所を挨拶に訪れているが、女院の取次を行ったのが五位判官代宗長であり(中右記)、叙爵していたことがわかる。
 長承二年七月一三日には鳥羽院の女御として入内した泰子の家司、識事、侍が補任されているが、侍の中に宗長がみえる(長秋記)。翌三年二月六日には熊野詣でから帰る途中の待賢門院が池田御所に立ち寄っているが、そこで迎えたのは和泉守であった女院判官代宗長であった。近江守であった父宗兼は、藤原顕輔が近江守に補任された天承元年二月二〇日に和泉守に遷任したと思われるが、保安二年春から天治元年正月までに続く二度目の和泉守であった。長承三年閏一二月三〇日に重任を認められた某は宗長であり、長承二年中に父から譲られる形で和泉守に補任され、保延三年一二月二九日に卜部兼仲と相博する形で石見守に遷任した。

2019年8月22日 (木)

藤原光隆と源兼忠2

 これに対して、建久九年(一一九八)三月に範子が甥である土御門天皇の皇后宮となった際に、大夫藤原頼実(清隆娘が母)、権大夫実教、亮公頼(実教の子、母光隆娘)、大進平親国(光隆娘が妻)、権大進藤原兼隆が補任された。翌四月二一日には皇后宮範子の行啓に伴う勧賞として、兼隆が従五位上に叙され、藤原光子が従五位下に叙せられている。この兼隆は前述の斎院次官兼隆とは別人で、長方の子兼隆(高)である。藤原光子もその名前から光隆の娘で、範子の乳母となるとともに、実教の妻となったとの角田文衛氏の説があり、古沢氏の論文でも利用されているが、誤りで、藤原範光の娘で、按察使典侍、坊門院光子と呼ばれていた。
 光隆と範子の間に関係があることは明白であるが、その背景となるものについては不明である。建久九年一一月二一日には皇后宮大夫頼実が右大臣に補任されたことに伴い、権大夫実教が大夫に昇格し、実教跡の権大夫には雅隆が補任されている。
 なお、源雅頼はその亭の所在場所から壬生中納言と呼ばれたが、光隆もまた猫間中納言ないしは壬生中納言と呼ばれた。その亭が所在したのが坊城の壬生(猫間)の地であったことに由来する。雅頼と賀茂斎院との関係は、久安四年六月二三日に頼長の子兼長が侍従拝賀のため、土御門斎院(白河院子禎子内親王)御所を訪れた際に、雅頼が取り次ぎを行っている。
 古沢氏論文は二〇〇九年三月発行の「大分県地方史」206号掲載であるが、藤原能盛について、正木喜三郎氏の旧説=能盛一人説を基本として述べられている。正木氏は後に批判を受け入れ、清盛側近の能盛と後白河側近の能盛は別人であるとの能盛二人説に転じており、これが正解である。古沢氏も二人説の存在には言及しているが、この点が無用の混乱を与えるのは残念である。

藤原光隆と源兼忠1

 古沢恒平氏「豊後大友氏の出自とその親交圏」を国会図書館にコピーを依頼して入手した。野口実氏「治承・寿永内乱にともなう鎌倉勢力の鎮西進出について」(京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要第28号、2015年)で、範子内親王を養育した藤原光隆と、源雅頼(斎院判官代親能はその家臣で、且つその妻が兼忠の乳母であった)の嫡子兼忠が縁者であるとし、その典拠が古沢氏論文であったためである。この論文が掲載された「大分県地方史」は、おそらく日本史学科のある大学図書館の一部にしか所蔵されて居らず、地元大分県立図書館の蔵書検索でもヒットしなかったためである。  一読したが、なお疑問が残る。兼忠の母が藤原家成の娘であり、家成の子実教の妻が光隆の子であることが述べられているが、兼忠は雅頼三五才時の子で、その時点では母方の祖父家成は死亡(1154年)している。兼忠の養父に源俊定がおり、兼忠は承安二年(一一七二)一〇月二六日に俊定の譲りにより侍従に補任されている。兼忠の父雅頼の母は源能俊の娘であるが、能俊の嫡子が俊定の父俊雅である。俊定が兼忠の養父となったのは、兼忠の母=家成の娘が早くに死亡したことが原因であったと思われる。家成の嫡子隆季やその弟家明がいたが、実教は兼忠誕生時に一二才でしかなかった。兼忠母と前述の男子が同母か異母であったかは不明である。  以上の点から、源雅頼・兼忠父子と光隆の関係は、それほど強いものではなかったと思われる。  光隆が範子を育てた経緯も不明である。光隆の嫡子雅隆は治承二年に範子が斎院となった際に勅別当となっており、光隆の娘を妻とする実教は治承四年四月一日から寿永二年一月一四日まで斎院長官であった。その際に次官に補任されたのが雅隆の弟兼隆であった。仁安二年(一一六七)八月二三日に光隆が任権中納言の拝賀を行った際に、備後守雅隆とともに散位兼隆がみえていた。

2019年8月17日 (土)

平重盛の周辺2


 基章の娘との結婚は、清盛に待賢門院(父忠盛は女院別当であった)とともに、美福門院との関係をもたらしたことになる。重盛は藤原家成の娘で、藤原経宗の猶子となっていた経子を妻としている。家成の子成親が重盛と同年齢であるため、経子は成親の同母妹と考えられているが、経子の子清経が生まれたのは、長寛元年(一一六三)であり、重盛と経子の結婚は平治の乱後の可能性が大きい。となると、重盛が妻の兄成親の助命をしたとの説は再検討が必要である。なお、清経には経盛、資盛という二人の異母兄がいた。
 清盛の後妻時子は平時信の子で、時忠の同母姉であるが、その母は令子内親王(白河院皇女で鳥羽院の准母、皇后とされる)に仕えていた女性である。彼女が後に頼長側近藤原顕憲との間に産んだ能円は、異母兄が保元の乱で頼長方となり没落したのに対し、一四才年上の異父姉時子の養子となり、法勝寺執行となった。能円の娘在子は御鳥羽院の子為仁親王(土御門院)を産んでいる。時子が清盛の妻となった時点では、滋子(建春門院)の母である藤原顕頼の娘祐子が時信の正室で、時子、時忠兄弟もその下にあった。
 顕頼には藤原清隆の妻となった妹がいたが、彼女は後に異母叔父朝隆の妻となり、保延元年(一一三五)には嫡子朝方を産んでいる。清隆・光隆父子が平治の乱後、義朝の母とその孫である坊門姫(頼朝同母妹)を保護したのはすでに述べた通りである。清隆の子隆盛は平正盛の娘を母とし、清盛の従兄弟である。
 以上、重盛と頼朝助命の関係について確認したが、重盛もまた待賢門院流の関係者であることは確認できたが、それ以上の特別な関わりがあったかどうかは不明である。なお、忠盛の子忠度が藤原為忠の娘を母としている。

平重盛の周辺1

 『平治物語』の頼朝助命の場面では、当時二三才であった清盛の嫡子重盛も重要な役割を果たしている。その背景(事実ではないとの見方も可能だが、その場合でもなぜ重盛にその役割を担わせたのかという点が重要である)について確認する。平治の乱の時点で重盛は正五位下左衛門佐兼遠江守で、乱の勲功で伊予守に補任され、従四位下に叙された。
 重盛は清盛の最初の妻と思われる高階基章の娘を母として、清盛が二一才の時に生まれている。翌年には同母弟基盛が誕生しているが、その他の兄弟は知られておらず、久安三年(一一四七)には異母弟(母時子)宗盛が生まれている。基章の母が死亡したためであろうか。基章は源家実の子であったが、高階為家の養子となった。基章の同母兄弟為忠も藤原国明の養子となっており、家実の死ないしは出家がその背景と考えられる。
 白河天皇の乳母を母とする国明は、藤原師基の子であったが、白河院のご意見番源俊明(妻は師基娘、鳥羽天皇の外戚藤原公実の摂政補任要求を不当とし、白河に思い留まらせた)の養子となり、国明も白河院庁の別当となった。国明の養子となった為忠は妻なつとも(待賢門院女房)とともに白河崩御の際に立ち会った院近臣であった。一方、基章の計歴に特筆すべき点がないのは早くに亡くなったためであろう。基章の娘が清盛の妻となった時点では為忠(重盛誕生の二年前に死亡)の関係者の庇護下にあったであろう。
 為忠・なつとも(橘大夫の娘)は白河院・待賢門院との関係が深かったが、その子為経と美福門院の乳母夫藤原親忠の娘美福門院加賀との間に生まれた隆信は女院分国の国守を歴任した。似絵の名手として知られ(神護寺の頼朝・光能・重盛像の作者との説は近年否定された)、子信実は水無瀬神宮蔵「後鳥羽院像」の作者とされている。隆信は母加賀の再婚相手である藤原俊成のもとで育てられたこともあって、実夫為経(寂超)とともに歌人としても知られている。
(修正)国明の養子為忠=基章の同母兄となつともを妻とした為忠は別人であった。

2019年8月15日 (木)

吉田庄領家宗成について

 この人物について述べるのは『松江市史』通史遍原始・古代で、出雲国で早い段階で成立した庄園として、摂関家領福頼庄と吉田庄が挙げられ、吉田庄は建長年間の近衛家領目録の中で藤原宗成が領家であったと述べられていたからである。典拠として『講座日本荘園史』九巻で井上寛司氏が出雲国の庄園を概観した報告が挙げられていたが、そこには藤原宗成の記載はなかった。『島根県の歴史』の中にもなし。『島根県の地名』の吉田庄(井上氏担当)にあった。
 敢えて名前を記しながら、それがどのような人物か説明がないのが不思議であった。近衛家の目録に記される庄園に付せられた人名については、永原慶二氏が庄園成立に関わった人々と解釈されて独自の論を展開されたが、後の研究で建長年間の領家であることが明らかになり、永原説は現時点では否定されている。
 井上氏が宗成を藤原氏とされた根拠は不明だが、実際には高階時宗の子で、私歌集『遺塵和歌集』で知られた人物である。従四位上(公卿にならない貴族の極位)左京大夫が極官で公卿にはならなかったため、その生年は不明であるが、井上宗雄氏『改訂新版 中世歌壇史の研究 南北朝期』によって、寛元五年正月一九日の近衛兼経の摂政就任時の拝賀扈従の地下前駈の中に、高階宗成〈被補勾当〉とみえることから、この時点で近衛家に近侍していたことが明らかにされている。寛元二年正月二三日の除目では大膳権亮(亮が従五位下相当)に補任されている。建長二年五月二〇日の源具実内大臣拝賀でも「散位宗成」とみえ、永仁二年五月二八日の禁裏和歌御会の参加者として「左京権大夫宗成朝臣〈初参〉」がみえる。一方、寛喜二年二月八日に藤原宗成が従五位上に叙されているが、これは別人である。
 宗成は近衛兼経だけでなく、基平・家基・家平の四代に亘って近衛家に仕えており、その活動は一四世紀初めにまで及んでいる。建長七年一二月一七日に近衛基平が左近大将に補任され、夜には随身所始を行っているが、父である前刑部少将(従五位下相当)高階時宗が備後守平信輔とともに別当に補任されている。さらに祖父為宗は寛喜三年四月一四日に権中納言日野頼資の知行国である上総国の守に補任されている。頼資は日野氏惣領兼光の子であるが、兄資実が九条家に仕えたのに対して、近衛家に仕えていた。為宗の曾祖父宗章は白河院の近臣であったが、祖父清章は美福門院に仕え、皇后宮少進から女院判官代となり、その娘は、美福門院とその子八条院に仕えて公卿となった藤原実清の室となっている。
 以上の状況から、宗成の祖父為宗の代から近衛氏に仕え、吉田庄領家であった可能性が大きい。宗成は正安二年に歌集『遺塵和歌集』を編纂した後にも、嘉元元年に『嘉元百首』を詠進しているが、その御の消息は不明であるという(錺武彦「『遺塵和歌集』と高階宗成」(国語国文884、2008年)。宗成は近衛家領目録作成時には二〇才前後で、叙爵前ではなかったか。

2019年8月11日 (日)

藤原清隆と光隆3

 これに対して、建久年間の光隆の場合は、九州における鎌倉幕府の支配体制の転換にかかわったとされる。すなわち、天野遠景が鎮西奉行人を解任され、中原親能が武藤資頼とともに鎮西統治の担い手として登用されたこととの関係である。親頼は早くから朝廷と幕府のパイプ役となっていた源雅頼に仕える一方で、斎院次官を務めていた。その斎院とは高倉天皇と小督との間に生まれた範子内親王であるが、光隆は幼少時の範子の養育者であり、範子は准母、皇后を経て院号宣下された際に、御所の所在地にちなみ、坊門院と呼ばれたが、これは幼少時に育った光隆亭に隣接してあった。頼朝の同母妹が坊門姫と呼ばれたのも、光隆亭で養育された事による。
 親能の妻は雅頼の嫡子兼忠の乳母となっていたが、光隆は兼忠の縁者でもあったというただし、どのような「縁者」であったかは現時点で確認できていない。(野口氏は古沢恒平氏「豊後大友氏の出自とその親交権」に基づき述べべられるが、当該論文は未見)。両者がいわゆる待賢門院流に属していることは確かだが、それ以上にどのような関係があったのであろう。頼朝と光隆との関係としては、光隆が領家である前斎院領出雲大社領の神主として、頼朝が過去に恩を受けた内蔵資忠を推薦し、補任を実現し、建久元年の遷宮をなしとげたことがある。
 ちなみに、天野遠景と関係があったとされる吉田経房の後任は、文治六年正月に補任された藤原範能であった。範能は信西入道の子脩範と平範家の娘(その母は清隆の娘)との間に生まれている。その範能が建久二年一〇月に辞状を提出し、翌年一〇月に権帥に補任されたのが光隆であった。

藤原清隆と光隆2

 当時は権帥と大弐のいずれかが在任することが多かったが、権帥清隆・忠基と大弐清成・頼季という体制が久安五年から保元元年まで、異例なほど長く続いたことがわかる。成勝寺領豊前国伝法寺庄は仁平二年(一一五二)に藤原忠通の子覚忠によって寄進・成立している。本庄四〇町、加納三〇〇余町という大規模庄園であった。その環境整備が行われたのは久安三年(一一四七)正月二八日に豊前守に補任された中原重基の時代であったと考えられる。今回は太史枠で国守に補任されたものである。
 重基の系譜上の位置づけは確認できていないが、右大史と左太史を歴任する一方で、保安二年九月一二日の忠通主催の歌合に参加しているように、歌人としても知られていた。白河院死亡後の大治四年八月一六日には待賢門院の新たな別当が補任されているが、その中に「重基」がみえる。当時活動している人物に医家丹波重基もいるが、別人で、中原重基に比定できる。このように、待賢門院との関係を有した人物であった。重基の後任と思われる橘清仲は仁平二年正月二八日に補任されたが、任国に赴任した八月に河尻辺で死亡している。兵部丞から式部大丞に進み、御弓奏や神楽等の儀式に関わる一方で、省試の監試を勤めており、豊前守補任時には六〇才を超えていたと思われる。
 平貞賢が豊前守に補任されたのは翌三年三月であった。元永二年九月二一日に白河法皇が熊野詣をした際に、御共をした北面下臈として、備中守平正盛、石見守藤原盛重に続いて平貞賢がみえており、白河院と関係の深い人物であった。
 筑前国でも保元の乱以前に粥田経遠により粥田庄が成勝寺に寄進され成立している。これも建久図田帳で本庄八〇町、加納六〇〇町余で、その上、加納の一部六〇町が豊前国に及ぶ大規模庄園であった。経遠は保元の頃には筑前国嘉麻保浪郡内三か村を近衛天皇の御願寺延勝寺に寄進したとされる。新たな庄園の寄進先が変わったのは乱で崇德院が没落したためであろう。
 以上の状況から、藤原清隆が鳥羽院・美福門院のみならず、崇德院との関係を維持していたことは明白であろう。鎌倉初期の成勝寺相折帳で確認できる所領以外にも成勝寺領が存在し、大規模なものがあったことがわかる。そうした背景には、崇德院が鳥羽院の没後、院政を行う可能性が高いと思われていたからである。

 

藤原清隆と光隆1

 清隆とその嫡子光隆は、白河院の近臣であった隆時を越えて、正二位権中納言まで昇進したが、もう一つの共通点として、大宰府権帥を当時としては長く勤めている。
 清隆は久安五年(一一四九)三月一八日に大宰大弐を兼ね、七月二八日に権中納言となると、八月二日には権帥に補任され、仁平三年(一一五三)閏一二月二三日に権帥を辞任している。大弐と権帥を併せると四年九ヶ月の在任であった。 
 光隆は仁安三年一月一一日に権中納言を在任五ヶ月足らずで辞退し、安元二年(一一七六)一月三〇日には一九年間在任した治部卿も退任して散位となった。鎌倉幕府成立後の建久三年(一一九二)一〇月に大宰権帥に補任されると、建久九年一月三〇日まで五年三ヶ月在任した。既に述べたように、頼朝の妹坊門姫が光隆亭で育てられ、この頼朝との関係を背景として、光隆が大宰権帥に補任されたと思われる。
 清隆在任中の特筆すべき点として、大宰府の所在する筑前守が光隆の同母弟清成であったことである。清成は久安五年四月三日に若狭守を重任し、一〇月二日にも見任していたが、一一月二六日までには筑前守に遷任している(高野山文書)。在任一年未満の美福門院の乳母夫藤原親忠との相博であった。清成も一〇月二日に美福門院の殿上始の際にはその殿上人としてみえる。次いで久安六年一二月二二日に大宰大弐を兼任している。前任の筑前守親忠も大弐を兼任していたが、若狭守に遷任した時点で大弐も別の人物に交替していた可能性が高い。
 清成の筑前守兼大宰大弐は仁平四年に没するまで継続していたと思われる。その後任の筑前守には同母弟頼季が補任された。頼季も久寿二年(一一五五)一二月二五日には大弐を兼任し、平治元年正月二九日に得替している。一方、権帥清隆の後任は娘聟である藤原忠基であり、保元の乱後交替している。忠基は忠教の子で、保元の乱で崇德方となった教長の異母兄である。その兄弟教智(母は不明)は仁平四年六月三日には摂津国難波庄を崇德院の御願寺成勝寺に寄進している。教長が源行宗死亡後、兵衛佐局の養父となったのはすでに述べた通りである。

 

2019年8月 6日 (火)

下野守藤原宗国3

 仁平四年正月に頼長の嫡子兼長が春日祭上卿として南都に向かい、天皇と院の殿上人が前駈をしているが、「蔵人大夫」経憲は新院(崇德院)の殿上人と記されている。頼長とその子師長並びに崇德院と結んだこともあり、経憲は『保元物語』で崇德院のもとに集まった貴族の中にその名がみえるだけでなく、実際に七月二七日には罪名を下された中にも「散位経憲」がみえている。
 以上、宗国が忠実の家臣であったのを受け継いだ子経憲は頼長・隆長の家臣となるとともに、崇德院との関係を深めて、保元の乱で処分され、歴史の表舞台から姿を消した。宗国が藤原宗長の後任として下野守に補任されたのは忠実との関係であった。その後任義朝に対しても、藤原清隆と並んで摂関家が後押しをしたと思われる。前述のように、義朝の子で後継者の候補であったのは波多野氏の娘を母とする朝長と熱田大宮司季範の娘を母とする頼朝である。いずれも頼長との関係をうかがわせるものであり、ある時期に義朝が頼長に接近したのは確実であろう。
 さらに朝長の母について補足しようと思ったが、義朝の妻の父義通が嘉承二年(一一〇七)の生まれで、義通の母方の祖父藤原師綱が康和年間(一一〇〇)頃の生まれ(師綱の祖父師季は1059年生)では計算が合わない。義通とその父とされる遠義が同一人物でないと、世代間のズレが大きすぎる。その問題を無視すると、朝長の母系を辿ると藤原師綱につながり、師綱と藤原俊忠(歌人俊成の父)の娘の間に生まれた女性が藤原朝方の妻となり嫡子朝定と弟朝経を生んだこととなっており大変興味深い。
修正:この経憲もまた宗国の子ではなく、顕憲の子である。

下野守藤原宗国2

 康治二年以降は関係史料がなかったが、久安五年には下野守に補任された。年齢は六〇才半ばではなかったか。その四年の任期が終了したので、仁平三年(一一五三)三月二八日に後任として義朝が補任されると同時に叙爵した。この補任と叙位を実現した立役者が藤原清隆であったことはすでに述べた通りである。清隆は鳥羽院・近衛天皇の近臣であったが、崇德院との関係も強かった。鳥羽院との関係によるならば「故善子内親王合爵」(妻の兄藤原範忠は「子聡子内親王合爵」)という回りくどい形を取る必要はなかったであろう。僐子内親王は白河院の娘で伊勢斎宮をなったが、斎宮を退任し、嘉承二年一二月三〇日夜半に都に戻ったが、その際の御所とされたのは清隆の父故隆時の中御門富小路宅であった。隆時の父の兄弟惟綱の娘には源顕房の妻となった惟子(因幡掌侍)とともに閑院流仲実の妻となった女性(前斎院女房)がいた。
 宗国の子経憲の動向を合わせて確認する。康治二年に雅仁親王蔵人であったことは前述の通り。久安五年一〇月一日には一六日の頼長子師長の元服の雑事が定められているが、裳燈行事として経憲がみえる。一九日には師長の職事として従五位下藤原朝臣経憲がみえ、宗国に次いで子の経憲も摂関家の家臣となっていた。仁平三年八月八日には頼長が春日社の参詣する際の雑事が定められているが、競馬の行事の一人として経憲がみえる。次いで九月一六日には参議に補任された師長が各所を慶賀のため廻っているが、前駈の一人として経憲がみえる。ただし、いずれも「散位」であり任官はできていない。
修正:ここにみえる経憲は藤原顕憲の子であろう。

 

下野守藤原宗国1

 源義朝の前任の下野守である藤原宗国について確認する。
 宗国が下野守に補任されたのは久安五年(一一四九)三月一八日の除目で尻付に「式部」とある。康治二年(一一四三)六月時点では「宮内少輔」(近衛天皇の蔵人藤原経憲の父としての表記)であったが、嘉承二年(一一〇七)四月二六日には「式部大夫宗国」とみえる。或いは康治二年六月以降、式部省の役人に補任されたのであろうか。
 管見の範囲で宗国の初見史料は、『中右記』康和三年(一一〇一)八月一三日条で、「蔵人宗国」とみえる。前述の経憲は宗国の二男であったが、やはり蔵人となっていた。康治二年時点の宗国は六〇才前後で、子経憲は二〇才前後であろうか。これまで、「宮内少輔宗国」と下野守宗国は別人ではないかと思っていたが、史料を確認すると同一人物である可能性が大である。
 長治二年(一一〇五)六月一七日には春日社奉幣使として「職事宗国」がみえるが(中右記)、『殿暦』同年七月八日条により、宗国が忠実の識事であったことが確認出来る。嘉承二年七月一二日には「散位従五位下藤原朝臣宗国」とみえ、叙爵していたことと、式部大夫の任が終わっていたことがわかる。それが天永三年一月二二日には、忠実の子権中納言忠通が春日上卿を勤めるので、前駈を出すように白河院から度々使者があったので、「余職事宮内少輔宗国」に対して案内したことが記されている。散位から宮内少輔に補任されたことがわかる。

 

2019年8月 5日 (月)

義朝の外祖父藤原忠清再論

 義朝の母が、幼少の孫娘とともに平治の乱後、実家である藤原清隆・光隆の保護を受けたことを述べたが、そこで気になったのが、清隆の父隆時と忠清の関係である。前の記事では異母兄弟であるとしたが、『尊卑分脈』では隆時の母を信濃守平貞盛とし、忠清については「母同」と記す。貞盛の系譜上の位置づけは確認できていないが、問題は隆時と忠清の間に記されている隆能で、母は高階為行女とある。このため、忠清の母を為行の娘とした(大日方氏の論文でもそう解釈している)が、この隆能は清隆の子としても記され、清綱の子隆能が清隆の養子となったとしている。兄が弟を養子とする例はままあるが、叔父を養子とすることは物理的、時間的に不可能と思われるので検証してみる。
 高階為行は後冷泉天皇の子であったが、諸般の理由で高階為家の養子となった。長暦二年(一〇三八)生の為家に対して、為行は康平二年(一〇五九)に生まれ、嘉承二年(一一〇七)に四九才で死亡している。一方忠清は永久四年(一一一六)正月以前に四八才で出家しており、治暦年間(一〇六五~六九)の生まれであろう。妻とした為行娘を為行が二〇才の時の子とすると、承暦二年(一〇七八)の生まれとなり、夫忠清との間には一〇才程度の年齢差が想定できる。
 一方、隆能はその活動期間からみると清隆の養子ではなく実子であろう。長承三年(一一三四)八月二七日鳥羽院が待賢門院とともに鳥羽に御幸した際の供奉人として、通憲(信西)とともに隆能がみえる。次いで久寿元年(一一五四)八月九日に隆能が鳥羽金剛心院の扉絵を描いた賞として従五位上に補任されている。翌年九月二三日には主殿頭隆能の子隆成が後白河天皇への昇殿を認められている。隆能との上下関係は不明だが、元永元年(一一一八)には平正盛の娘と清隆の間に二男隆盛が生まれている。よって忠清の「同母」とは兄隆時と同じと解される。隆重にも「同母」とあり、隆時、忠清、隆重はいずれも平貞盛の娘を母とする同母兄弟であった。これに対して、隆時の嫡子清隆は寛治四年(一〇九〇)年の生まれであるから、高階為行より三一才年下であり、清隆と為行の娘との結婚には無理がない。
 頼朝と坊門姫の母は保元四年に死亡し、母方の祖父熱田神宮大宮司藤原季範も久寿二年に死亡している。また、平治の乱で大宮司家の人物で義朝方となった人は確認できない。義朝の母が実質的実家である藤原清隆・光隆父子のもとで坊門姫を育てたのは確実であろう。 

 

2019年8月 2日 (金)

『暇服事』について

 佐々木氏の論文を承けて「暇服事」を検索してみると、早稲田大学図書館所蔵本の画像が公開されていたので閲覧した。写本の間で微妙な差があり、その影印が出版されている尊経閣本(佐々木氏が利用)は確認していないが、池禅尼の記事は早稲田本では応保二年(一一六二)一二月ではなく一一月一七日条に記されている。それに続いて一二月二日の記事があるので、一一月が正しく、尊経閣本は誤りではないか。臨時祭とは賀茂臨時祭のことで、応保二年の実施日は関係史料を確認できていないが、永暦元年は一一月二三日(『山槐記』)、長寛二年は一一月二一日(『雅頼記』)に行われており、この点からも、禅尼の危急による頼盛の辞退は一一月一七日と考えられる。
 中山忠親が記した『山槐記』からの抜粋であるため、忠親の縁者の死亡記事が中心だが、保元四年(一一五九)四月二六日夕方には家成の兄弟肥前前司保説が死亡している。忠親の外継父とあるが、後述の家長同様「外叔父」ではないか。忠親は三才時に父忠宗が死亡しており、七才上の同母兄忠雅とともに、母の実家=家保亭で育てられ、家保の子である家長、顕保、家成、保説、保成との面識があった。とはいえ、その死を知ったのは翌日に参院した際であり、それは家成の嫡子隆季卿も同様であったと記している。忠親の重服が解けたのは閏五月七日で、一三日から出仕することとしていたが、隆季は五日には出仕している。忠親は特別な勅定があったのではないかと推測している。
 応保二年四月二三日には刑部卿家長が死亡している。これも忠親は翌二四日に出仕した際に人から聞き、確認したところ、家長は二三日に出家し、その夜半に死亡したという。家長は「外叔父」と記されているが、年来疎遠であったとも記されている。忠親はあらかじめ知らされていなかったため、出仕してしまった。
 長寛三年正月七日には前美濃守保成が死亡している。早稲田本には「十七」とした上で、「十」に〇が付けられている。一七日では話が前後するため、誤りと判断したのであろう。このケースでも一一日に、円勝寺への御幸のため参院しようと思ったら、或人から連絡を受けたとしている。そのため八日に八省に参ったことは従事してはならなかったと記している。
 以上、忠親の母(家保の娘)の弟であるがゆえに、保説、家長、保成の死亡記事を確認できた。「高階敦政の投身自殺」で紹介したように、異母兄弟である家長と家成の仲は悪かったとされており、そのため、忠親など家成との関係が深いものには情報が届きにくかったと思われる。池禅尼の死亡時期については、応保三年正月二四日に頼盛が尾張守を辞任しており、この直後であったのではないか。

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