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2019年7月23日 (火)

日野資憲3

 資憲辞任の理由は、翌年に資憲が出雲国揖屋庄(社)を崇德院の御願寺成勝寺に寄進していることで判明する。この年八月には待賢門院が死亡し、その御願寺円勝寺や法金剛院の庄園は多くが永治元年末に天皇を退位した崇德院の管理下に入ったと思われる。まさに崇德院庁が本格的にスタートする時期であり、資憲は院庁別当の中心として活動するようになったと思われる。
 久安四年一〇月四日には鳥羽院殿上で高陽院が白河殿(御所)に渡御する雑事の打ち合わせが行われ、鳥羽院と高陽院の関係者が集まっているが、その中に高陽院庁別当の中心である源雅国とともに資憲もみえており、御簾の行事を務めることが決まっている。資憲は高陽院との関係も維持していた。その一方で資憲は新院崇德の御所を訪問する人々の取次を務めており、崇德院庁別当の中心であった。
 久安六年四月二八日には藤原伊通の娘で関白忠通の養女となった呈子に女御宣旨が下されているが、その夜の除目で、資長が右少弁に転任された。二月二七日に皇太后聖子が院号宣下を受け、資長は皇太后宮権大進を止められていた。資長の右少弁補任について、藤原頼長は『台記』の中で、兄資憲を越えたと記している。久安三年五月二一日には両者の父実光が七九才出死亡しており、兄資憲と弟資長のいずれが日野氏惣領となるかと思われていたのが、鳥羽院・近衛天皇に近い資長が後継者となったと思われたのであろう。六月二二日には女御呈子が立后され、資長の同母弟光盛が中宮権大進に補任されている。

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