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2019年7月 7日 (日)

美作勝山合戦の再検討

 この点については八年前にブログへの質問に答える形で述べたが、近年の倉恒康一氏「徳島福屋氏旧蔵尼子氏関係文書について-「立原福屋両家伝」の検討と紹介」の成果に基づき、再検討する。
 尼子長童丸感状写(立原福屋両家伝)について、中沢文書の影写本から翻刻され、併せて『出雲尼子史料集』(『大原郡誌』より引用)には未収録の尼子国久感状も翻刻された。前者は一〇月六日ではなく二六日が正しく、後者は一〇月二七日付である。後者の花押は国久の花押として問題ないとしている。
 長童丸が義久の童名であることは「神魂・伊弉諾両社先例覚書断簡」により確認でき、且つ天文二一年一二月一五日には「三郎様」とみえ、これ以前に元服していたことが確認される。これにより両文書が天文二一年以前のものであることがわかる。倉恒氏は「天文二一年ヵ」としたが、関連史料を確認すると、天文二〇年一〇月に尼子晴久とその家臣が美作国に出張しており(証如上人日記)、この際に勝山合戦が行われた。石山本願寺と尼子氏家臣が交信しており、そこには尼子式部少輔誠久、弟の孫四郎と甚四郎、さらには弟の佐右衛門大夫敬久がみえるが、父国久はみえていない。
 国久感状をみるとわかるが、国久は立原源太兵衛からの合戦の報告を受けた上で、高田・勝山合戦の感状を与えており、合戦の現場からは離れた場所にいた。元服前の義久(長童丸)とともに富田城に残っていたと思われる。「家伝」では「石州高田合戦」と「伯州城主山名」との合戦が記されているが、後者は一六才であった山中幸盛が初高名を上げたとしており、永禄年間の合戦であろう。となると高田は石見国となるが、以下のように美作国である。
 美作国勝山合戦と密接な関係を有するのが、同年に比定できる一二月一六日尼子晴久袖判三浦氏知行安堵状と尼子誠久・牛尾幸清連署書状(石見牧家文書)である。前者には「此旨高田衆へ可被仰渡候」とあり、高田が美作国の地名であることは明白である。以前、この文書は『尼子史料集』が比定した天文一七年頃のものではなく、室町幕府から晴久が守護に補任された天文二一年三月以降のものとしたが、天文二〇年のものに修正する。天文一五年から花押は大型化(横幅が拡大)するが、守護補任以降は、横線の角度が小さく平坦化している。花押のみではわかりにくいが、晴久と花押が記されている場合、「久」の字と花押上端の横線の間の隙間がなくなっている。当該文書の袖判は大型化しているが、久と花押上端の間には明確は隙間がみられる。
 以上、倉恒氏論文の成果を反映させ、より正確な結論を得ることができた。 

 

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