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2019年7月 6日 (土)

六代相伝とは何ヵ

 貞応二年五月二五日関東下知状の中で、飯多郷について兼季の三代知行を仲広承伏した上に、兼季が度々地頭として成敗を受けていることは明らかだとして、幕府は仲広の訴えを退け、兼季に飯多郷地頭職を安堵した。この三代知行が兼栄-兼高-兼季であることは明らかである。兼栄が初めて飯多郷の下司となったことになる。
 これに対して、仁治三年四月二五日関東下知状の中には、周布郷(吉高名)・鳥居郷・安富郷(本名別符)を益田兼時が舎弟兼定に譲った際に、故大将家御下文は貞応二年六月一三日に焼失し、六代相伝之文書は手継文書のため、割分に及ばず、兼定に渡すことはできなかったとしている。系図に従えば、国兼-季兼-兼栄-兼高-兼季-兼時となるが、季兼と兼栄が親子ではなく兄弟であることは以前述べた通りである。季兼までは兼が名前の下の字に付いたのに対して、兼栄以降は兼が名前の上に付いている。
 季兼については大半の益田家系図では兼実か兼真であり、唯一、鈴木真年氏所蔵石州益田家系図のみ兼季としてその注記には「改兼実」とある。兼実であったのを兼季と改めたとの解釈が普通であろうが、他系図が兼季と記さないことからすると、兼季から兼実と改めたとの解釈も可能である。久留島氏によると、益田家では家系図をどのようにするか検討する一方で、その背景を知ることができる系図を廃棄せずに残したとされる。そこで問題となるのは、兼長・兼久兄弟と兼久の子兼胤の扱いと、兼弘の後の「兼世」の扱いである。ただし、兼世の情報を残したのは三隅氏系図とその元となった益田氏系図のみであり、季兼と兼実(真)の問題に至っては鈴木氏本が残らなければ、全く不明であった。それは益田氏の祖とされる国兼の父と兄弟も同様である。これまで、国兼の父とされたのは日野有隆と藤原公通であったが、鈴木氏本では宗季とし、その四人の子国季・国兼・国頼・国宗を記している。父との関係が強いのは「益田太郎」との注記のある国季と末弟の国宗であろうか。四人とも石見国守源国保とその父雅国の影響を受けているが、父の名前の一字を付けているのは国季と国宗である。
 一方、国兼の子が「兼」を付けているのは国保の後任も石見国守源季兼との関係であろう。季兼の名からは益田太郎国季と源季兼の影響がみられるが、それゆえに他の系図では抹殺されたのではないか。その代わりに兼実(兼真)の名が記され、本来の国季の子の扱いではなく、国兼の子の位置に記されたのではないか。
 当方では季兼(兼実・兼真)が一の谷合戦に参陣した「案(安)主大夫」でああり、国兼の子ではないと考えた。となると六代相伝が問題となるが、それは国兼の父宗季から始まり、国兼-兼栄-兼高-兼季-兼時と続く六代であると結論付けた。仁治三年段階では系図の再編成・修正は始まっていないのである。

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