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2019年7月29日 (月)

日野資光2

 資光は顕仁(崇德、元永二年五月二八日生)以下の璋子の子が誕生する前後の儀式では、清隆、顕頼、範隆(清隆同母弟)とともに饗の負担を担当するとともに、大学頭として誕生した子の教育を行っている。そして天治元年(一一二四)一〇月二六日に璋子が院号宣下により待賢門院となると、源能俊(権大納言)、通季(権中納言)、顕隆(権中納言)、藤原家保(顕季子、内蔵頭)、藤原忠宗(右近中将)、清隆という六人の別当のもとで、資光は平実親(その子が範家)、高階通憲(信西入道)とともに判官代に補任された。その後、天治二年には崇德天皇の蔵人に補任されていることが確認でき、大治二年九月までには正五位下に叙せられ、大治四年二月には昇殿を認められ殿上人となっていた。この間、大治三年一二月日待賢門院牒では別当の末尾ではあるが「大学頭兼式部少輔藤原朝臣」とみえる。
 女院別当と天皇蔵人を兼ねる資光に対して、大治五年正月三日に昇殿を許された一一才の藤原頼長が各所を慶賀のため訪問した際に、女院の取次を務めたのは判官代藤原宗長であった。宗長は宗兼の子で、池禅尼の同母弟と思われる。そして別当として女院庁を取り仕切ったのは持明院通基であった。
 大治五年(一一三〇)一一月二三日に女院の熊野詣でに同行したのは、石見守に補任されて世間を驚かせた侍卜部兼仲、預藤原資盛(大治三年末に石見守から安芸守に遷任)等と五人の女房であった。その中には女院別当源師時の娘、源顕仲の娘、隆重(清隆の叔父)の娘、高階為章の娘とともに資光の娘阿波が含まれていた。

 

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