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2019年7月23日 (火)

日野資憲1

 崇德院の側近中の側近となった資憲について基本的事実を確認する。
 公卿にならなかったため、生年は不明であるが、日野実光とその叔父(有信弟)有定の娘との間に、天永元年頃(一一一〇)に生まれたと思われる(以下ではこの前提で年齢を算出)。高階重仲の娘を母とする異母弟資長は元永二年(一一一九)の生まれである。資長が蔵人となったのは保延三年(一一三七)二月二日であり、一八才であった。これに対して資憲が崇德天皇の蔵人であることが確認できるのは一八才となった大治二年(一一二七)正月五日である。兄弟を比較しつつ述べていく。
 同年一一月一五日には「秀才蔵人資憲」とあるが、資長は蔵人補任の二年前である保延元年七月三〇日に秀才となっている。日野氏が学問の家であるため、資憲も蔵人に補任される前に秀才となったのであろう。大治四年正月六日には蔵人使である資憲が二〇才で叙爵しているが、その前に検非違使にも補任されていたことがわかる。資長も蔵人補任の翌年正月二六日に右衛門尉に補任されるとともに検非違使宣旨を受け、四月には中宮(聖子)臨時御給で叙爵している。日野氏は摂関家家司を務めており、二年後の保延六年四月七日には資長が中宮権大進に補任されている。
 鳥羽院政二年目の大治五年一〇月五日には大殿忠実の使者が鳥羽院のもとを訪れた際に、紀伊権守資憲が取り次ぎをしており、院との関係も有していた。資憲も摂関家との関係も有しており、天承二年(一一三二)二月二八日の法成寺御塔供養では、威儀師の行事を叔父宗光とともに資憲が務め、勧賞として従五位上に叙せられている。供養に先立つ一月二六日には勘解由次官に補任され、二月一七日には関白忠通の家司に補任されている。二三才であったが、弟資長が従五位上となったのは二六才となった康治三年(一一四四)正月六日であり、その意味では資憲が先行していた。天承二年二月一七日には資憲の妻の父で、待賢門院判官代と別当を務めた叔父資光が五〇才で死亡している。

 

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