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2019年7月28日 (日)

平治の乱と待賢門院流3

 後白河も待賢門院の子であるが、嫡子である兄崇德を排除する形となったため、待賢門院流の人々が支持したのは女院の同母姉の子懿子を母とする守仁=二条天皇であり、女院の娘上西門院を中心として結びつきを維持していた。頼朝が保元三年二月三日に皇后宮(統子内親王)権少進に補任された際の権大進吉田経房(光房子)の母も藤原俊忠の娘であった。待賢門院流の一員であるということのみで行動するわけではないが、平治の乱の関係者の底流に待賢門院流という結び付きがあったことは間違いなかろう。
 平治の乱に参加した藤原成親は崇德天皇の乳母の子である家成を父としたが、その母方の祖父経忠は、待賢門院の同母姉実子を妻としていた。成親の同母弟盛頼は尾張守として頼朝の父義朝の墓の管理に協力しているが、俊忠の子俊成の娘(八条院三条)を妻とし、その間に産まれた娘は盛頼が成親とともに失脚したこともあって祖父俊成の養女となっている。成親の異母兄隆季は高階宗章の娘を母としている。宗章の姉妹が待賢門院女房遠江内侍で、待賢門院女房加賀が宗章(加賀守に在任経験あり)の娘ではないかとされる。隆季の母と同一人物ではないか。隆季が近衛天皇即位後に天皇の行幸に参加しなかったために処分を受けたことは前述のとおり。
 待賢門院流の結びつきの中で、俊忠の子女が重要な役割を果たしている。徳大寺公能と俊忠娘との間に産まれたのが、知行国美作の目代に梶原景時を起用した実定である。野口実氏は景時起用の背景には景時自身が実定との間に和歌を通して関係を有していたと推測したが、そうではなく、頼朝と実定の関係が先行していた。
 保延元年三月四日の女院闘鶏の記事に登場する三人の青年貴族から、以前より予告していた平治の乱と待賢門院流の人々の関係についてまとめてみた。

 

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