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2019年7月 6日 (土)

益田氏惣領の行方1

 久留島氏による新史料の公開により、表題のテーマに関する情報が格段に増え、より客観性のある分析が可能となった。これまでも、その時点(明らかとなった史料に基づく)ではそれなりの客観性を持っていると思った説が、実は異なっていたことが判明した事は何度となくあった。以下具体的に述べていく。
 久留島氏は「益田氏の系譜関係再考」の中で、兼長の遺領のうち益田本郷等主要部分を受け継いだのは娘千手であり、その子兼弘、兼利(俊)や女子(法名是阿)などがいて、益田氏惣領の地位は千手から兼弘へ、さらには兼世へと継承されたと推測できるのではないかとされた。これにより、兼長の死後、弟兼久をへてその子兼胤が益田氏惣領を継承したとの説に対して疑問を提示された。
 これを読んで、当方も一度は兼久による継承は事実ではなかったと思ったが、そうすると更に多くの疑問が生まれ、やはり兼久が惣領を継承したと考え直した。二転三転である。久留島氏は兼胤については分析されていないが、兼胤が益田氏領の大半を没収されたことを前提としないと、その後の益田氏について理解することはできない。
 例えば、千手が益田本郷を受け継いだとすると、その子兼弘はなぜ「山道孫太郎」と呼ばれたのだろうか。福田栄次郎氏の説に戻って、兼弘以外の嫡子がいたが南北朝の動乱で没落し、それに替わって兼弘の子孫が惣領の地位を奪ったことになってしまう。兼弘が兼胤と千手の子であることは確実である。兼弘は父から譲られる所領がなかったため、母千手領を譲られた。益田本郷は千手ではなく兼胤の所領であったが、没収された。
 千手が兼胤による女捕の被害者である点と兼胤との間に兼弘を含む複数の子を産んでいる点に疑問があるかもしれない。以前は、兼久の子兼胤は兼長の娘との結婚を前提に惣領となったと考えたが、こうした中で女捕が起きることはありえない。そうしてみると、兼胤と千寿は結婚する予定ではなかったが、女捕後結婚し、複数の子が生まれたと解釈する外はない。
 トラブル相手との結婚というと変であるかもしれないが、以前、益田兼時は弟周布兼定に譲った所領が、兼定の死により異母弟兼政と兼定後家並びにその連れ子幸寿に譲られたことに介入し、子兼久を養子に入れて相続させようとした。これに対して兼政と後家が訴え、介入は退けられた。ところがその後、対立したはずの幸寿と兼久が結婚する形で事態は収拾されている。

 

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