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2019年7月 6日 (土)

弥富名の相伝次第1

 永安氏との弥富下村をめぐる相論の中で、益田祥兼は自己の権利は正和五年二月二一日に阿忍が弥富村を孫に三人の譲ったことに基づくと主張している。この主張について、久留島氏は阿忍置文にはその主張と一致する文言はないとされる。それは鳥居女房が阿忍跡の惣領として伊甘郷惣領地頭職を譲られたが、弥富名については、用途の請取のみ記され、同二年一〇月一五日の譲状でも弥富名への言及がない。鳥居女房は弥富名については、福圓寺分の一町を管理して寺の興業を委ねられたのではないか。一方、伊甘郷も孫・曾孫に分割して譲られており、弥富郷が三人の孫に譲られたとする祥兼の主張には根拠があると思われる。
 一方、永安氏の主張にはどのような根拠があるだろうか。久留島氏は弥富名が永安兼祐から孫娘良海に譲られ、その後男子兼員が誕生したため、悔い返されたというと記しているが、これは弥富名から独立して三隅氏が譲られた小弥富の誤りである。弥富名は夫兼長の遺領として阿忍が譲られており、益田氏領である。
 貞和七年六月一九日三隅信性請文(吉川家文書)では庶子吉川経兼領「納田郷内弥富・小弥富・庄窪等田畠并永安別府地頭職」については、相伝と当知行とも問題が無いとして足利直冬奉行所に起請文を提出している。ただし、これに基づき出されるはずの直冬下文は残されていない。発給されたが、後に益田氏領であるとして没収された可能性がある。実際、寛元四年一一月三日将軍頼嗣袖判下文で三隅兼信から乙法師丸(永安兼祐)への譲与が安堵されているが、その根拠となった三通譲状の内小弥富に関するものは残されていない。
 小弥富(現浜田市)と弥富下村(現益田市)が別の所領であることも明らかであるが、では永安氏は何を根拠としたのだろう。考えられるのは、正平八年に足利直冬方国人が益田攻撃を命じられていることである。益田氏惣領は動乱当初は幕府方であったが、貞和五年一一月までに反幕府方に転じ、同月三日には三隅城を包囲する幕府方を攻撃して退却させている。惣領兼忠(系図では兼直や直兼とするが、同音である前者はともかく後者はありえない表記である)が主導したものであった。その兼忠が貞和七年三月二三日去渡状を最後に姿を消しており、死亡した可能性が高い。そうした中、兼忠の父兼世と弟兼利(系図では兼忠の養子となったとする)が、幕府方の働きかけもあって、幕府方に転じたと思われる。「文和二年」一〇月五日乙吉・土田村内検目録で北朝年号が使用されており、乙吉氏の中にもこれと呼応するものがあった。

 

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