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2019年7月 6日 (土)

三隅氏の幕府帰参時期

 新出の益田實氏所蔵文書により、貞治三年(一三六四)八月に三隅氏女が幕府(将軍であろう)から本領安堵状を得ていた事がわかった。これを踏まえて貞治五年九月三日益田兼見軍忠状を解釈し直す必要がある。兼見は貞治三年九月に幕府からの軍勢催促の奉書を受けて、同月二六日には三隅城に発向し、一〇月五日には大寺要害を構築している。従来は、なお反幕府方であった三隅氏を攻撃するためだと解釈してきたが、三隅氏が八月までに幕府方に転じていたとすると別の解釈が必要である。直冬方から幕府方に転じようとした益田兼世・兼利が直冬方国人からの攻撃を受けたことはすでに述べたが、同様の事態が想定できる。
 すなわち一貫して反幕府方の中心であった三隅氏が幕府方に転じたことに反発する直冬方国人が三隅氏を攻撃したと。これに対して幕府方の命を受けた益田兼見は三隅氏救援に赴き反幕府方国人を退けたと思われる。三隅氏が益田氏と同様、相対的に早い時期に幕府方となった背景としては、三隅信性の孫直連(父兼知は反幕府方による京都攻撃に参加した際に戦史)と益田兼見の娘が結婚していたことがあった。貞治三年八月に所領を安堵された藤原氏女は両者の間に生まれていた娘であろう。直連が死亡した可能性もあるが、直連が引退することで、幕府方への復帰を実現した可能性が大きい。前に紹介した『石見国益田庄御旧封古事記』には兼見は三隅氏の庶子であったとの記述があるが、それが具体的にどのようなものかは不明である(その母が三隅氏出身であった可能性はある)。
 貞治五年七月には石見国内の反幕府方国人討伐のため、大内弘世が周防国から進発すると、兼見もこれに合流し、七月一三日に青竜寺城へ発向した。『史料集益田兼見とその時代』では大寺=青竜寺城としているが、明らかに表記が異なっており、青竜寺城は福屋氏の支城であろう。二年前の三隅城攻撃の中心であり、当時の反幕府方の中心であった福屋氏に対して、幕府側の反撃の準備が整い、作戦が実施されたのであろう。石見国での勲功により大内弘世は山名義理に代わって石見国守護に補任された。

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