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2019年7月 9日 (火)

丸毛兼幸について1

 丸毛兼幸についてはその譲状と軍忠状が残っているにもかかわらず、謎多き人物である。今回、久留島氏が紹介された系図を踏まえながら確認したい。
 兼幸の父が名宣、祖母(父方か母方かは不明)が連阿であることは、正平一〇年三月十六日兼幸譲状から明らかである。名宣の実名は兼直(三隅氏系図では兼貞)である。問題はここからである。久留島氏が三隅氏系図の元となったとされた益田氏系図(国7-2-16)では、兼直は丸毛氏初代兼忠の孫兼氏の子とするが、三隅氏系図では兼氏の兄弟(兼信の子)とし、さらには兼幸の兄弟として兼義と兼顕を記している。譜録成立後の益田氏系図(国文研の整理番号F921、F894、F922、R8)ではいずれも兼氏の子として兼親のみ記す.三隅氏系図も同様である。萩博物館所蔵周布氏系図に含まれる丸毛家略系も兼直を兼氏の兄弟とし、妻の実家波多家から宇地村地頭を譲られたとする。更に兼直の子兼幸の母を波多与市兼国(兼弘の兄弟)の娘亀夜叉と、具体的な記述がある。兼氏の子としては兼親のみ記しており、この系図が譜録成立後の益田氏系図に影響を与えたと思われる。
 久留島氏は国7-2-16を三隅氏系図の元となったものとされており、簡単ではない。さらに、今回紹介された石見国宇地村地頭系図(国7-2-11)では、波多兼国の姉妹として宇地村地頭是阿(亀夜叉)を、その子として兼幸、孫として兼里を記している。是阿の譲状には孫子兼里のみみえ、兼幸の譲状にも子九郎入道智弘と孫子直世しかみえない。さらに兼里譲状にはその由緒に関する記述がない。
 丸毛兼幸は元弘三年九月一四日に安富郷と丸毛別符内堀越村・渋谷名の当知行を国宣で安堵されており、是阿は七月二六日に宇地村の当知行を安堵されている(建武五年二月一一日申状具書目録)。是阿が建武五年に孫子に所領を譲ったのに対して、兼幸は正平一〇年に孫子に所領を譲っており、是阿が一世代早いことは確認できる。以上を踏まえると、是阿は兼弘と同世代、兼幸は兼弘の嫡子兼世と同世代と思われ、是阿は波多兼国の娘ではなく、兼弘・兼国の姉妹とすべきであろう。

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