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2019年7月14日 (日)

以前の記事の補足2

 「池禅尼」の生没年は不明だとしたが、没年については佐々木紀一氏「池禅尼の没年」(『山形県立米沢女子短期大学付属生活文化研究所報告』三四号、二〇〇七年)の中で新出史料に基づき、応保二年(一一六二)末か翌三年始め頃であったとの成果が得られているそうだ(栗山圭子「池禅尼と二位尼ー平家の後家たち」(『保元・平治の乱と平氏の栄華』)。当該雑誌は公開されているのが三九号以降であり、県内で所蔵している図書館(家政学関係の論文の抜刷の一部のみ県立大学松江キャンパスが所蔵)はなく、国会図書館に複写を依頼する外なさそうである。とはいえ、「あたり」との書き方から想定できるのは、禅尼の子頼盛の重服が終了した時期が明らかになったことである。一般公開されている『公卿補任』(国会図書館蔵と『大日本史料』掲載分)にはその記録を欠いているのが不可思議であったが、その記載のある写本が確認され、頼盛の復任の時期から少し幅を持たせていると思われる。
 応保元年九月三日には後白河院と女御平滋子との間に憲仁親王(高倉天皇)が誕生し、平時忠と清盛の異母弟教盛がその立太子を画策したとして解官されているが、清盛の妻時子と滋子は母親が違い、清盛が関与した形跡はないとされる。応保三年正月二四日に頼盛は尾張守を辞任し、清盛の子重衡(母時子)に交替しているが、頼盛は知行国主となったと推定されている。とはいえ、頼盛の官職・位階が停滞する中。清盛の嫡子重盛が応保二年には正四位下に叙されて追いつくと、翌年には従三位に叙されて公卿になったのに対して、頼盛が従三位公卿となったのは仁安元年(一一六六)であった。禅尼の死が頼盛の平氏一門での地位を低下させた。後白河の寵臣で重盛の正室経子の同母兄と推定される藤原成親もその時点で公卿となった。
 頼盛は、皇太后宮(近衛天皇中宮呈子)権大夫に補任されたが、滋子を皇太后にするため、呈子は仁安三年三月に院号宣下をうけて九条院となった。頼盛の職は停止され、替わって皇太后宮権大夫となったのは清盛と時子の間の生まれていた宗盛であった。同年一〇月に頼盛は参議となったが、その一ヶ月後には公的行事への不参加等を理由に子保盛とともに全ての官職を解官された。一年後にようやく許されるが、その後頼盛が接近したのは美福門院の娘で膨大な庄園を譲られていた八条院であった。
(補足)佐々木氏は『暇服の事』(前田育徳会尊経閣文庫所蔵)中の『山槐記』抜書の応保二年一二月一七日条に、修理大夫平頼盛が母の病が危急の状態であるとして臨時祭使を辞退したことと、代理を打診された能登守平教盛が、頼盛の母は自分の継母であり、父忠盛の死後、継母の関係の裳服が無いことを確認してから返事をすると答えた記事から、池禅尼の死亡時期を推定された。

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