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2019年7月29日 (月)

日野資光3

 阿波は従兄弟である日野資憲との間に俊光を産んでいるが、久寿二年(一一五五)一二月一日に「尚福修理亮」として初見し、翌年一月七日には、「春宮非蔵人大学助」俊光が、資光の子盛業(文章得業生・新院蔵人)とともに後白河天皇の蔵人に補任された。次いで同二六日の除目で俊光は式部大丞(正六位下相当)に補任されている。
 盛業は久安六年(一一五〇)一二月三〇日に二一才の藤原範季とともに学問料使給の宣旨を受けている。盛業も範季と同様二〇代前半であろう。長承三年(一一三四)に父資光が死亡した時点では一〇才未満であろうか。なお範季は後に、資憲の娘と平教盛(範季より二才年上)との間に産まれた教子を妻としている。以上により間接的ではあるが、資憲と阿波の結婚と子俊光の誕生は資光が死亡した長承元年二月一七日の前後の時期であろう。
 中宮璋子の時代と待賢門院庁初期は藤原清隆、藤原顕頼と日野資光が中心であったが、大治年間に入ると、別当持明院通基が中心となり、そのもとで判官代となったのが池禅尼の弟藤原宗長であった。宗長は女院分国和泉国と石見国の国守を務めたが、女院が死亡する前年に、高陽院分国の国守であった資憲の後任として下野守となった。宗長は待賢門院の死後は高陽院や摂関家との関係を深めていく。
 資憲が退位後の崇德院庁の中心となったのに対して、持明院通基は同母妹前斎院統子内親王家の中心となり、久安四年一〇月一〇日に通基が五九才で死亡すると、子の通重(ただし翌年に死亡)と基家が統子内親王家の管理にあたった。保元の乱後に統子が院号宣下を受けて上西門院となった後も、基家とその子が女院分国の国守を務めている。

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