koewokiku(HPへ)

« 益田氏惣領の行方1 | トップページ | 弥富名の相伝次第1 »

2019年7月 6日 (土)

益田氏惣領の行方2

 兼長が死亡した時点で阿忍が二五才であったとの情報については既に紹介した。この時点で千手は幼少であり、兼長の同母弟兼久が益田氏惣領となるのは自然な流れである。兼長後家阿忍へも所領が配分されたが、その後まもなく兼久も死亡し、所領の再分配が行われた可能性が強い。兼弘が返還を拒否した阿忍の文書には、①文永一一〔一〇ヵ〕年(一二七三)四月一七日御下文とともに②寛元二年(一二四五)七月一八日関東下知状があった。①も文書を見れば関東下知状である。②は兼長が所領を継承したことに関するものであろうが、一般的な相続ならば将軍袖判下文家政所下文であるので、これも兼時が未配分で死亡したための配分に関するものであろう。
 前に述べたように兼長の死は配分が行われた文永一〇年の一〇年以上前であった。間もなく弟兼久も死亡した。これにより、さらなる配分が必要となり、決着したのが文永一〇年であった。兼久が一旦惣領となっていなければ、その子兼胤が惣領とともに益田本郷外複数の所領を配分されることは考えられない。一方、兼長の後家阿忍とともに娘千手にも所領が配分された。
 そうした中で兼胤による千手への女捕事件が起き、兼胤が相続した所領は没収された。兼胤の子兼弘が東山道郷と北山道郷(こちらは他の子にも分割して譲られた)を得たのは母千寿領であったためである。益田氏内部では、兼胤と千手を結婚させる形で事態の収集が図られ、兼弘の兄弟姉妹も誕生した。正応二年(一二八九)正月一三日に是阿は宇地村を譲られたが、それは祖母阿忍領「北仙洞郷内田参町柒段」であった。この時点で五〇代前半であったと思われる阿忍は伊甘郷を益田氏惣領兼弘に譲った。弥富名についても同時期にこの二人以外の孫某に譲ったのであろう。
 それが譲状を修正する必要が出たため、正和年間に阿忍が兼弘に譲状と支証の返還を求めたところ、兼弘が抑留したため、阿忍が幕府に訴えている。そこでは弥富名と宇地村には言及されてはいないが、宇地村は是阿が兼弘を訴える事態となっていた。正和二年一〇月一五日に阿忍は兼弘への譲状を破棄して、新たに別の孫である鳥居女房に伊甘郷を譲り、死を前にした同五年二月二一日には置文を作成した。この時点でも問題は解決しておらず、同月二四日には六波羅探題が土屋氏に対して兼弘に文書の糺返について伝える事を命じている。鎌倉初期に大田郷地頭となった土屋氏が、邑智郡桜井庄を得ていたがため、選ばれたもので、おそらくは守護とその関係者だけでなく、周辺の地頭にも同様の命令が出されたと思われる。元亨二年二月二七日に兼弘が是阿に宇地村を去渡したのはその成果であろうか。

 

« 益田氏惣領の行方1 | トップページ | 弥富名の相伝次第1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 益田氏惣領の行方1 | トップページ | 弥富名の相伝次第1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ