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2019年7月23日 (火)

日野資憲2

 長承二年六月一九日に資憲が院の使者として派遣されているが、そこには「勘解由次官」とある。同年七月一三日には鳥羽院の女御として入内した泰子の家司・諸事・侍が補任されているが、資憲はみえない。翌三年二月一七日の法勝寺金堂被供養金泥一切経に鳥羽院、崇德天皇が行幸した際には、院司行事として平忠盛とともに資憲がみえているが、三月一九日に女御泰子が立后された際には皇后宮権大進として資憲がみえている。次いで八月五日に皇后宮泰子が鹿島神宮使者を派遣することが定められているが、資憲が行事を務めている。資憲は鳥羽院司と皇后宮権大進の業務を並行して行い、保延元年(一一三五)四月九日の除目では、藤原為隆の子憲方とともに正五位下に叙せられている。資憲は二六才、憲方は三〇才であった。これに対して弟資長が正五位下に叙せられたのは久安四年(一一四八)七月一七日であり三〇才であった。なお資憲が先行している。
 康治元年一二月一三日と天養元年九月二二日付の鳥羽院庁下文の署判者として勘解由次官兼下野守である資憲がみえ、下野守に補任されていたことがわかる。それが一二月三〇日に資憲は下野守を辞任し、これ以降、院庁下文の署判者としてはみえない。その後任となったと思われるのが、待賢門院判官代を務めて、女院分国和泉と石見の国守を務めていた藤原宗長である。宗長は宗兼の子で池禅尼の同母弟と思われる。宗長の母は日野有信の娘であり、その甥が資憲であった。
 宗長は待賢門院判官代を務める一方で、長承二年には女御泰子の侍としてもみる。天養元年末まで石見守であったと思われるが、資憲の後任として遷任した下野国は保延五年七月二八日に院号宣下を受けた高陽門院(泰子)の分国であったと思われる。元木泰雄氏は下野国が摂関家の分国であったとは思われないとしているが、何の根拠もない憶測でしかない。資憲は保延四年正月一五日には勘解由次官としてみえ、下野守補任はこれ以降であり、泰子の院号宣下とともに、下野守に補任されたのではないか。石見国は天養二年正月に大和守であった源清忠が遷任してきている。藤原忠通の知行国が大和国から石見国に遷ったのである。

 

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